アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

観察―見る・触る

 整体の観察の中では、感覚が重要な役割を持っている。外界を捉える五感(外界感覚)、そして平衡感覚、運動感覚などの自分の内側の状態を捉える身体感覚。その中で「見る」と「触れる」について書いてみようと思う。
 見るというと、スマホなどを「見る」という時と「観る」という時があるが、やっぱり整体の観察では「観る」だと思う。これは表面を眺めているのではなく、相手の内側の動きを観るというか、「気」を観ているからだろう。
 見るは一方的かつ客観的に見ることができるが、「観る」は自分を開き、相手とつながりのある状態でなければできない。
 では「触る」はどうかというと、ものとして「触れる」のと、生きているものを「触れる」のとでは触れ方も感じる内容も違う。
 しかし「見る」と「観る」の違いというのとはまた異なる。「触れる」ということは、そのつもりがなくても無意識に「つながって」しまうところがあるのだ。
 整体の観察を学び始めた時、私は、「観る」は最初から得意なほうだった。しかしある時、先生から「眼に頼りすぎている」と注意された。先生は、眼と手では捉えることが違うのだと言った。
 私は眼で捉えたことを過信しすぎていたのだと思う。観たことは触れて確かめなければならない。そして、触れて確かに感じ取ることができたその後、初めて「どうすればいいか」が、ふっとお腹の底の方から浮いてくるのだ。
 眼だけでは、往々にして良くないところが見えるだけで、悪いところを表面的に対処するような感じになる。曲ったものをちょいと真直ぐにしようとするような感じだ。
 でも触覚は、次の手まで分かるし、相手とのつながりが深くなり、感じることが変わって理解が深まる。心を感じることができる。
「観る」ことにも愉気は含まれていて、気で観るものなのだが、触れることでの自分と相手のつながり方の変化、捉える内容の変化は愉気の質を変える。
 今思うと、先生は、眼で観ると同時に手で「看る」ということ、両方あって「観察」だ、という意味だったのだと思う。
 私にはもともとさわり魔の傾向はあったのだが、それでもやはり眼に頼ってしまったのは、相手に注意の集めるということに、腰が入っていなかったからだと思う。
 今は、「触れる」のであれば、私は確実に腰が入るし、集中力の次元が変わるようになった。それは私の感じることで捉える世界を確実に変えた。
 こういうことが、愉気がある、ないということなのだ。これは、直接先生から弟子へ、体から体へ、「無心」の心と一緒に伝えなければ伝わらないことなのだと思う。懐かしく、思い出される。