アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

野口整体の課題

 野口整体についてのいろんな文章に接して、思ったことを書こう、としたのだけれど、難しい…。「この人はこう思うんだな」というところから、それに対して何かを言うのが難しいのだ。全部が全部、同感!というわけではないところもあるが、今、発展的な問題意識を持つことは大切だと思う。

 やはり、今、日本人の心と体そのものが、野口先生存命中とは変わってきている(整体を教えるのが難しくなる方向に)という大きな問題がある。どんなことを難しいと感じるかとか、そういう発言は一般の人からも指導者からももっとなされてよいだろう。

 そこで、今回は私が野口整体を考える上で大切にしたいことを書いておこうと思う。

 近年、指導者の中で整体の中から「愉気がない」「愉気が無くなってきた」という指摘がある。これは私の師匠がよく言ったことではあるが、他の野口先生の直弟子だった指導者の中にもそれを指摘する人がいる(整体協会の指導者)。これは野口整体の命にかかわるぐらいの大問題だと思う。

 野口整体で「愉気」という時、それは、体に手を当てる(手当て療法)というだけではない。目に見えないものを介在させ、やり取りすることで、相手を包んだり、感覚や心を共有するという共感性のことを言う。だから言葉の中にも愉気があったり、なかったりする。

 愉気に関心を持つ多くの人は、家族や自分以外の誰かに「やってあげたい」と思う。自分でも、痛みなどがあれば自然とそこに手が行くものである。それはごく本能的なことで、一般的にはそういう理解でいいし、そういう愉気もある。

 ただ整体の中から「愉気がない」というのはもうちょっと重い話で、それは野口整体という概念や体系ではなく、人間そのものにどのくらいの興味や関心が持てるか、自分の内側を掘り下げて、人に対する理解力を育てていけるかという問題になって来る。

 野口晴哉は『愉気法Ⅰ』の中で愉気についてこんなことを言っている。これは指導者向けというより一般の方からの質問に対する答えだが、紹介してみたい。(『愉気法1』愉気法の会(1970年)での講義)。 

私達が自分の内面を開拓し、人間を丁寧に知り、人間の裡にある生きている不思議さとか、心の働きの微妙さとか、そういうものを丁寧に理解して手を当てておりますと、同じ愉気をするということでも違ってくるのです。

…その愉気法でも、体に行おうと思っている人は体に効くのです。心に伝える人は心に伝わるのです。魂を清めると思っていると、魂も清まるのです。

だから愉気法というのは、形式は単純でありますが、それに対する理解力が増えると、内容はだんだん変ってくるものであります。

  活元運動にしろ、脊髄行気法にしろ、できるようになるというのは入り口に立つことで、そこからが始まりである。それは、気の世界、生命の世界という途方もない広さと深さにつながっている。そういう畏敬の気持ちと自分の命に対する信頼を、忘れないようにしたい。