アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

野生の蘭について

先日、毛虫と野生の蘭の写真を文中にいれたが、どうも絶滅危惧種の蘭だったようである。もし見かけても採らないようにお願いしたい。栽培は非常に困難とのこと。野生の蘭は採られてしまうことが多いそうで、知っていれば写真を使わなかったのだが…。反省。

心の病と宗教

 昨日、伊勢原市にある日向薬師というお寺に行って来た。何年か前から行ってみたかったのだが、やっと実現することができた。

 このお寺は屋根が茅葺で、それが穏やかで優しい雰囲気を醸し出していた。


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丹沢は山岳仏教の行場であり、ここは行基の開山(716)と伝わる古刹で大きなお寺だったが廃仏毀釈で多くが失われたと言う。大山もそうだが、神奈川は廃仏毀釈の被害が大きかった所が多いように思う。

 今回の目的は虚空蔵菩薩の石仏で、大きな木の洞の中にある祠に安置されていた。由来は不明だが奥之院にあったものを移設したとのこと。

 私の眼には相当に良い像のように思われ、外に置いておいていいのだろうかと思ったが、もしかするとこの虚空蔵菩薩は外の方がいいのかもしれない。素朴で穏やかな表情だが、虚空蔵菩薩らしい知的な雰囲気があった。


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 参道脇で野生の蕗を摘み、その後歩いて厚木の七尾温泉へ向かった。普通に林道を歩けば50分ぐらいで到着するのだが、その途中に亀石という巨石や大釜弁財天という見どころがあり、立ち寄ることにした。


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 2か所とも林道から山に入る小道があるのだが、大釜弁財天は林道から1㎞という表示があり、迷った後にえいっと山道に入っていった。しかし結構な上り坂で険しく、歩いているのは私一人だった上、なかなか目的地が見えてこない。

 ようやく登り切ったらさらに沢まで降りるという表示で、ひるみそうになったが頑張ってみた。

 大釜弁財天は蛇身像だが、小さな暗い洞窟の中に安置されていたので姿はよく見えなかった。雨乞の儀礼などが行われたそうである。巨大な岩と流れ出る水というのは日本人の元型的な象徴だが、それが純粋な形で遺っていると思った。


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 それほど高低差のある滝ではないが水垢離などは行われただろう。ただ、ここの岩は岩肌がなめらかで滝壺も丸く釜のような形で何となく女性的な雰囲気がある。


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 岩と水を見ながら、江戸時代には多くの精神疾患のある人が高尾山(薬王院)で治療のために滝行していたという話を数日前に聞いたのを思い出した。丹波市の岩瀧寺など全国的にそのような行場があったようで、昔は広く知られた治療法であったようだ。

 鎌倉の称名寺では明治に入ってからも滝行で精神疾患の治療が行われていたが、称名寺にある滝は広い岩壁一面に水が伝って流れ落ちるような不思議な雰囲気の滝で、強い水流に打たれるというようなものではない。

 ちなみに滝行には一定の治療効果があったようで、高尾山では産後の女性は治りやすいと言われていたようだ(理由は分からない)。

 流れる水と大きな岩を見ていると私も心が鎮まって、山道を歩いた疲れも、この1ヶ月の新しい生活に適応していく中での疲れも流れていくような気がした。

 そして日帰り温泉でしめくくって帰路についたのだが、何だか不思議なほど心も体も洗われたようだった。筋肉痛はちょっときつかったが…。もうちょっと普段から歩くことにしよう。

 帰ってすぐ、採ってきた蕗を煮てみたら驚くほどおいしかった。2日で食べてしまい常備菜にしようと思ったのにできなかったのが残念。

 精神病院以前(つまり近代以前)の精神疾患治療のことを少々調べて見ると、「信仰を背景とする治癒と介護の伝統」というものが日本にあった様である。

 古代の行基による救済事業を始めとして、その後「密教系の水治療を中心とする施設(水行・滝行)」、「律宗真宗系の漢方治療を取り入れた施設」「日蓮宗系の読経を治療につかう施設」の3つのタイプがあったようだ。(『精神病院の起源』小俣和一郎)

 白隠の『夜船閑話』も禅僧の心身障害を道教の行法で治療するという内容であり、仏教その他の東洋的身体行や治療体系は心の病に深く関わってきたというところは興味深く、欧米でもユングのみならず精神医学、心理学の研究者には東洋宗教に関心が深い人が多い。

 体から心へ、心から体へ。どちらの方向からであっても、それは奥にある一つのものに対する働きかけなのだ。そこに手が届くことが整体指導なのだと思う。・・・そこに届くのは難しいことではあるけれど。

物質と精神

 今日は思わぬ空白日。昨日近くの八百屋で、直径7㎝くらいの小さな地元産玉ねぎの安売りをしていたので、それを丸のまま野菜スープで煮ておいた。一晩おいてこれを今朝の朝ごはんに。

この玉ねぎは本当に新鮮で、上の部分を切るとぶしゅ―っと泡が吹き出してきた。玉ねぎの血液みたいなものだろう。これも生きているのだと、はっとした。大切に食べよう。

 そして今日はそば粉のパンケーキを作ることにした。ロシアにブリヌィというクレープとパンケーキの中間のようなものがあって、それに近づけてみようと思い、生地はゆるめにして寝かせ、焼いてみたらなかなかおいしくできた。牛乳を使うように指定してあるレシピが多いが、そば粉の場合、半分は水にする方がふんわりしておいしい(イースト使用の場合)。

 こうしてお腹も落ち着いたところで、今日書いてみたいことは以下の新型コロナウイルスについての記事についてである。

新型コロナウイルス感染症や後遺症で表れる中枢神経症状について、慶応大の岡野栄之教授(神経科学)らの研究チームは、脳内で不要な物質を取り除く作用がある免疫細胞(ミクログリア)がウイルスに感染し、それに伴って中枢神経が傷んで発症している可能性を、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使って確認したと発表した。

毎日新聞

 新型コロナウイルス感染症そのものは多くの人にとって死に直結するような病気ではないが、私がちょっと不気味さを感じたのはこの中枢神経に侵入するという点だった。

 他のウイルスも中枢神経に入ることはあるが、そうなったら多くの場合死に至る。しかし新型コロナウイルスは中枢神経に入った後、神経症状を長引かせる傾向があるのだ。

 これはウイルスの特性なのか、現代人の身体の問題(鈍りと大脳疲労)なのかという疑問があったのだが、おそらく両方があるのだと思う。現代人の身体に適応したウイルス、と言えるかもしれない。

野口整体創始者野口晴哉は、講義の中で「ウイルスや細菌が身体に入ってきた時に出る症状の多くは、それが中枢神経に入らないようにするために起きている」と言っている(これは野口晴哉独自の考えではなく医学的にも合致する考え)。

先の研究者は「ミクログリアが放出する物質の働きを抑えたり炎症を抑えたりする薬剤が、後遺症の治療につながるかもしれない」と述べており、原因となる物質を特定して治療薬を開発するというのが近代医学の方法である。近代医学はこうした感染症との闘いによって発達してきた歴史がある。

 しかし、病気の背景に解熱鎮痛剤を始めとした、症状を抑えるための薬を使い過ぎていること、抑うつ傾向や脳が休まらないことで体がウイルスの侵入に正しい反応ができなかったり、免疫系そのものが訓練されていないために過剰反応したりということがあるとしたら?

 今、難病とされている病気(治療法が確立していない)は、免疫の病気、神経の病気が多い。そしてもう一つは精神疾患であり精神、心と深く関わる領域だ。ユングが類心的(プシコイド)領域と言ったような、また整体的には潜在意識、心と体の間である。

 現代の病気はすぐに死ぬようなことはなく、寛解と悪化を繰り返しながら長い付き合いをするというのが多い。こういう病態で、物質的に原因を特定し、物質的に治療するというやり方によってすべて解決できるとは私には思えない。

 私は野口晴哉立川昭二という医療史家から「病気には流行り廃りがあり、時代と密接な関係がある」と学んだ。これは本当に大事なことで、立川先生は医学部の教授に「今度はどんな病気が流行るんですか」とよく聞かれると困っていた。そして野口晴哉の「今は癌が流行りだが、次には精神疾患が増えるだろう」という説に深い関心を持っていた。

 新型コロナウイルス感染症パンデミックでは、近代初頭にタイムスリップしたかのような気になったが、人類とは長い付き合いである感染症であっても、現代の病としての特徴ははっきりあるというところが興味深い。こういう点に関しては先日読み返したシュタイナーの『カルマ論』にも新たな発見があった。野口晴哉についても今読むと違う気づきがある。

 もうすぐ新学期が始まる。さらに広く、深く学んでいくことにしよう。

 

今の私

 今日は個人指導の後、どうしてもブレッドプディングが食べたくなり、冷凍食パンを使ってささっと仕込んでおやつにした。その後の夕食はシンプルに海苔多めのタラコスパゲッティと味噌汁。指導の後というのは不思議なもので、すごく食べたい時と軽くしたい時がある。どちらがいいとも言えないが、いずれも美味しく感じる。

 個人指導ではこのところ仙腸関節操法をすることが続いたのだが、これをやる時はいつも「そうそう、得意技だったな…」と整体の師匠のことを思い出し、ふっと笑いたくなる。笑っていてはいけないのだけれど懐かしい。

 また、指導をしている人の中に父親が急に亡くなった人がいて、話を聞く機会があった。死というものの受け止め方はその人の生きてきた過程と故人との関わりによって異なり、以前ここで書いた人とも違うその人だけの個人的体験である。

 今回の人は突然だったこともあり、深く関与することなく父の死を迎えることになったようだが、それでもこういう話は興味深いものである。しかし、本人の心の整理という意味では案外時間がかかるかもしれないと思う。まだ分からないけれど。

 以前から考えていたことではあるが、私は死を受け入れる、またショックを経過するための少人数でのグループワークをやりたいと考えていて、話をするのみならず身体的なアプローチを含めたものを模索している。

 私の中心というか、基盤は野口整体なので、私がそこから離れることはないけれど、野口整体を前に出さずに門戸を広くし、いろんな人が参加できるようにすることで、より広く野口整体の智を役立てることができるのではないかと思う。

 こういうグループワークは抑うつ症などの人が社会復帰する過程においても役立つものになるだろうと妄想?している。

 頭ではなく、体から湧いてくる気持ちに表現の形が与えられる時、ふっと硬張りが解け、心身が切り替わる。こういうことは野口晴哉も言っていることではあるが本当に身を以て体験させてくれたのは整体の師匠だった。こういうことは健康人より苦しんでいる人の方が実感できるものである。4月からは実現のための勉強が始まることになった。個人指導も活元会も続けつつ、ちょっと無理をしてみることにしたのだ。

 とりあえず今は未来を空想しながら、頑張ってみることにしよう。

自発的行為を抑圧してしまうと、心に反動的な動きが生ずる。

笑うのを堪えていると吹き出したり、悲しさに耐えていると涙が出てしまったり、何もかも面倒になったり、そればかりではない、体の生理現象にも変動が生ずる。

喘息とか、自家中毒とか、自閉症とかいわれているような症状を呈するし、口が利けなくなったり、半身不随になったり、筋委縮を起こしたりすることもある。

これらも自発性を抑えたことに対する自律現象といえるのだが、このことを知らない人は慢性病だとか、理由の判らない病気だとか、いろいろの難しい病名をつけて体相手に治療しているが、自発性を恢復させると体も恢復してしまうことが多い。

野口晴哉

 

終わりと始まりの間

 今日は淡路島から送られてきたばかりの野菜を下ごしらえして、冷蔵庫にしまった。お昼には淡路島ブロッコリーを蒸らし炒めにしてバターを絡め、夕ご飯は淡路島春菊の卵とじ、分葱のぬた。野菜ばかりだが、おいしくて身体がすっきりした。春は毒出しの季節だとも言われるが、そういう感じだ。

 それにしてもずいぶんと長い間、このブログを書かないでいたものだ。言い訳はたくさんあって、書こうかとも思ったけれど、まあいいか。

 この間にも心が動いたことはたくさんあって、書こうという気にもなったのだが、気がかりなことがあったせいで自分の気持ちをまとめるのが難しかったのだ。その気がかりなことも良い知らせが来て、ようやく書いてみる気になったのだ。

 今は身体が開いていく時期ではあるが、私は骨盤と神経系を中心とした変動が大きく、体調があまり良くない。熱がさーっと体を廻るような感じ、顎の痛み、肩や首、仙骨部の痛み。目のかゆみやくしゃみもあるし、主に喉をやられている。

 こういう時、私は年末に作り置いた柚子ジャムを蜂蜜とともにお湯にといて飲むのだが、ほとんど「服薬」という感じに効くのが不思議だ。自分に適ったものを見つけておくと安心である。薬に頼っているようで少々気が引けるけれど。

 ブログが書けなかった期間、そして今という時は、何か一つのタームが終わろうとしているのだと思う。ちょっと気持ちが内向きだったのは、次の段階が見えてこなかったからかもしれない。今は見えてきたので安堵感と弛みが来ていて、ちょっとぼんやりしたり、眠くなったりもしている。

 昨年まではマスクをしているから花粉症も軽いなどと言われていて、実際私もコロナ期間中症状が軽かった。しかし今年は同様にマスクをしていても昨年とははっきり違う。

 今年は花粉の量が昨年より多いとも言われているが、症状の強さには花粉の量よりも自分の体が花粉という刺激をどう感受し、反応するかが大きく関わっているのだと思う。そして私の身心は、何かが終わり、何かが始まる時に適応するため、花粉という刺激を必要としているのだろう。私の意識は必要としていないのだが…。

 花粉症はあるけれど、ちょっと一人旅に出てみたい気分でもある。以前、指導をしている人から教わった、千葉県香取市の佐原という古い街並みと香取神宮に行ってみようかな、と思っている。

「思いもうける(そのつもりでいる・心の準備をする)」という言葉は高校生の時に向田邦子の本で知ったのだが、古語にも「思ひ設く(おもひまうく)」という表現があり、古い言葉なのだそうだ。野口晴哉は想像することで実現すると言う。この旅を思い設けることにしよう。

 

春の身体と病症の経過

 1月22日は旧暦のお正月。月が暦の基準だった時代、15日は満月と決まっていた。それで1月15日が旧正月だということになっていたが、太陽暦の今は1月15日と月も離れてしまったという。今日が元旦で新月の日である。

 旧暦だがお正月らしいことをしてみようと夕飯にすき焼きを食べた。名古屋では、大晦日にすき焼きを食べるのが一般的だそうだ。私の師匠(名古屋出身)が食べていた記憶はないが、名古屋風にして先生を懐かしんでみた。

 その後久しぶりにそば粉のパンケーキ用のスターター(元種・イーストのゆるい培養生地で翌日そば粉と小麦粉、牛乳などを入れる)を仕込んだ。これは私のお気に入りで、ベーキングパウダーではなくイーストを使うのがポイントだ。でも寒いから発酵に時間がかかる。

 そば粉を使うというとフランスのガレットというクレープが有名だが、以前厚焼きクッキーもそば粉のクレープも「ガレット」と言うのはなぜかと思って調べたら、フランス語でガレットというのは「丸く焼いたもの」というざっくりした意味だと知って驚いたことがある。フランス語って緻密なようで大雑把なところもあるんだな…。

 ガレット以外にもヨーロッパやロシアにはそば粉を使う粉もの料理が意外とあって興味深いが、ライ麦や蕎麦はやせた土地や寒冷地でも育つ大切な穀物だったのだろう。イタリアではパスタにもそば粉を入れるようだ。

 ちょっと脱線したが、先日「発熱した後、微熱が続いている」という相談があり、「熱が下がる前に汗をかいたか」と聞くと「汗が出なかった」とのことだったので急遽個人指導をすることになった。

 このように経過が滞っている時は手を入れて、本来の自然な流れに戻るようにしていく。野口整体というと風邪を引いても薬を飲まないとか病院に行かないとか、何もしないで放っておくようなイメージを持たれていることが割と多いが、そうではないのだ。

 整体で病症の経過を教えるのは、指導者が「経過できる体の状態か」「経過がスムーズかどうか」の見きわめ(観察)と指導ができること、本人に病症についての一定の理解があることや普段から整体生活に意識を向けていること…といった基盤があってのことであり、やみくもに薬を飲むな、病院に行くな、などと言っているのではない。

 来年度には、新型コロナウイルス感染症の扱いが変わり、インフルエンザと同じ扱いになると報道されている。今後も新型コロナウイルスは変異を続け、亡くなる人もいるのだろうが強制終了するわけである。今まで何だったんだという気もするが、やっとそういう時が来たのだとも言える。

 振り返って思うのは、病原となるウイルスがどのようであれ、人間の体がウイルスの侵入に対して行うことは、自然の経過をたどる人であれば、あまり変わらないということである。ウイルスの侵襲を受ける個々の体に、重症化するかしないかの条件があるのだ。

 また、中枢神経が侵襲を受けること、神経系に後遺症が出やすいことなどが新型コロナウイルスの特徴だと言われているが、これは現代人の体の問題も考えられる。

 そして、免疫力アップというワードが注目され、いろんな食べ物やサプリメントが話題になったが、重症化する人は免疫の過剰反応が原因であることが多いということも忘れてはならないだろう。防衛と攻撃だけで健康が保たれているわけではないのだ。

 こうした問題のすべてが、野口整体の病症経過という考え方の中には含まれている。ことに今、風邪を経過することは春の体になっていく準備でもある。今回、病症経過を手伝うことで私自身も認識を深めることができたように思う。

 これから「今年の寒さは 記録的なもの 凍えてしまうよ 毎日吹雪吹雪 氷の世界」 (井上陽水「氷の世界」)という歌詞を思い起こすような天気予報となっているが、もう体は春に向って動き始めている。体が乾きやすい状態は今も続いているが、初春の時期は水を飲むようにしたい。

左義長

 本日1月14日(または15日)は左義長(さぎちょう・どんど焼)の日である。私の住む地域の神社でも夕方から儀礼が始まり、注連縄などが焚べられた。

 私はうっかり明日だと思い、のこのこ正月飾りを持っていったらすでに盛大に火が燃えていてちょっと焦った…。でもお飾りは受け取ってもらえた上、思いがけず焚火も見ることができたのは有難い。

 境内では御神酒とスルメが振舞われ、先が三又になった鉄の棒に三色の団子を刺したものを渡された。これを焚火に炙って食べるのである。

 こういうのが大好物な私はさっそく注連縄に囲まれた中に入ってお団子を炙った。 燃えている火を見ていると、雑念が消えて無心になって来るのが不思議である。なお団子は餅米ではなくうるち米の団子で炙るとなかなか美味しい。

 左義長の神火は大晦日に来訪した歳神を山(霊界)に送る意味があるという。昔、1月15日は小正月と言われ、左義長を始めとして民俗的に興味深い儀礼が各地に残っている。

 なんだかすがすがしい気持ちになって神社を後にし、自宅に戻ってからクリームシチューを作った。そして食事の後、余剰気味の卵と牛乳、そして冷凍したリンゴのキャラメリゼを使ってブレッドプディングまで仕込んでしまった(焼くのは明日)。左義長の炎で雑念が消えたせいか作業が進むのが早い…。

 その後、ぼんやり指導をしている人のことを思った。今、私としては「それでいいの?」と言いたくなるような状態にある人だ。言わないけれど…。都会に住む人も、たまには燃えさかる火でも眺めて頭を空っぽにする方がいい。そうすると、余計な思考が抜けて、自分の心がはっきりしてくる。

 そもそも活元運動というのは身体的に、もっと深いレベルでそういう心の状態をもたらすのが目的なのだが、そこまで指導できていないかな、と反省した。なにはともあれ、その人にとって一番適った方向に向っていってほしい、その羅針盤は自分の体にすでにあるのだから。

 写真は左義長の神火。

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