アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

アイルランドに行きたい

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Irish Women In Harmony - Dreams - YouTube 

 今、気に入っている動画。懐かしいクランベリーズのDreamsをアイルランドの一般女性たち(多分)が歌っている。Dreamsは王菲フェイ・ウォン)が広東語でカバーし、映画『恋する惑星』の挿入歌にもなった曲。あれも好きだったなあ。

 ここ数年、私はなぜかアイルランドに惹かれていて、アイルランド人にも親近感が勝手に湧いてくる。今一番行ってみたい、いやいつか行こうと目論んでいる国。伝統音楽ももちろん好き。

 今年初なのに整体とは全然関係ないな…。

 写真は今日のお散歩で見つけたオールドローズ。多分ダマスク系、香りは強い。寒いのに頑張って咲いていた。


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大晦日

 今日は一日 本を読んで過ごした とても寒い日だった

RCサクセションにこんな始まりの曲があったが、今日はなんだか本当に寒いと感じる日だった。

 やっとこさ起きてから、前の晩からやるぞと決めていたりんごのキャラメリゼを作る。私はカラメルソースというのが長い間うまく作れず、苦みと香りのない、べっこう飴みたいな味になってしまうのが常だった。

しかしグラニュー糖をさらさらと鍋に入れてそのまま火にかけて焦がしていくやり方を知ってようやくうまく作れるようになったのだが、今回もこの方式で洗双糖という国産のブラウンシュガーを使ってカラメルを作り(りんごから出るので水分は入れない)、そこにいちょう切りにしたりんごとバターを投入して炒め煮にする。やっぱりうまくできた!

 本当に簡単で、コンポートより大人の味だ。冷凍のパイシートで包めばアップルパイ、バターと小麦粉と砂糖でそぼろを作り、振りかけて焼けば英国式アップルクランブルになり、冷凍保存もできる。りんごが家に沢山あってもてあまし気味な時はぜひ試していただきたい。醤油のような色になるまでカラメルを焦がすのがポイントで、キャラメリゼなんていうおフランス語の名前に恥じないおいしさである。

 まあ、こんなことをしている間に今年の大みそかは過ぎていったのだが、今のような時代、静かに年が越せるというのはありがたいことだ。自分としてもよく頑張った、よく生き延びたと振り返って思う。

 先日、タモリが来年はどういう時代になるかと聞かれて「新しい戦前になるんじゃないでしょうかね」と答えたというのが話題になっていたが、この人は穏やかに鋭い人だ。コロナ禍が終わるからと言って明るい気持ちになれないし、世界的にも先が見えないことばかりなのだから。太平洋戦争前もこんな時代の空気だったのかな、と思ったりもする。

 でも、不思議なことに過去に戻りたいとも思わない。昭和や平成の方が良い時代だったとも思っていない。これはどういうことなのだろう。引返すことのできない、なにか大きな岐路に立っているということなのだろうか。私個人がそうだということもあるし、人間全体がそうなのかもしれない。

 今年は年を取ったというより若返ったような気がする不思議な一年だった。他者の目からは「いや、年取ってますよ」と言われるのかもしれないが、自分の感じとしてはそういう気がしないのだ。いや、コロナ禍が始まってからそうなっている気がしないでもない。この三年は蛹の時期だったのだろうか。来年は生まれ変わったりして…。

 何はともあれ、もうすぐ年が明ける。良いお年を。

体癖・開閉型9種について

 先日、ある若い男性の初回の指導を行ったのだが、その人から野口整体に興味を持ったきっかけは体癖だという話を聞いて少々驚いている。

少し前に、活元運動の会にも体癖から野口整体に興味を持ったという若い人が来たことがあるが、今、若い人の中で体癖に興味を持つ人が増えているのだろうか?

 野口晴哉存命の頃は、あの電通本社で体量配分計(体重がどのような配分で足裏にかかるかを計測する)と体癖関連の展示などが行われたことがあったようで、月刊全生でそれについての記事を読んだことがあるが、そんなに今、体癖が注目されているという話もあまりきいたことがない。偶然なのだろうか…?でも、嬉しいことである。

 その人に「自分は何種だと思う?」と聞いてみたら、「1種」と言うので「ええっ」と言ってしまった…。私の見解とは大きく離れていたので出てしまったのだが、申し訳なかった。

 初回の指導でまだはっきりしたことは言えないのだが、身体的な特徴などから私には9種があるように思えたが、本人は「そうかな…と思うところもあるけど、わからない」とのこと。

 どういうわけか9種というのはあまり自分では分からないことが多く、私も実はそうだった。私も師匠の最初の指導で9種体癖があると言われたが、「そう思えるところもあるけれど、中心的な体癖が9種とはわからなかった」というのが正直なところだった。

 野口晴哉も「9種については講義しにくい」と言っており、9種は他の体癖からは理解しにくいところがある上に、9種には言葉で説明するのが面倒くさいというところもあるのだと思う。そういう9種だから体癖のような人間を理解するための観点が必要だったとも言えるけれど。

 私の整体の師匠が若い時使っていた講義ノートには、「兄の場合 9種傾向が1・6種に変化」と書いてある。先生の兄上は、ノーベル賞受賞者を輩出した教室で理論物理学を専攻していたが喘息の持病があり、野口晴哉の指導を受けていた。それで野口晴哉からそう言われたと先生から聞いたことがある。

 9種が感情を内攻させるとどうも6種的になってくるようで、そうなっている9種が多いために自覚も難しいのではないかと思っている。特に9種のある男性は6種化傾向がよく見られるように思う。

 私自身体癖として前後型もあるけれど、やはり以前は6種的な傾向があって、今も体調を崩すとそういう傾向が出てくる。

 もちろん他の体癖でも呼吸器を悪くすることはあるし、そうなれば6種的な傾向は出てくるのだが、9種が自然を失っていると(骨盤の弾力が失われていると)そうなる傾向が強い、ということである。

 体癖というのはそこが難しく、体が良い状態ではない時に表れている体癖的特徴は現象的なもので、指導で変わって来るならそれは体癖とは言えないのだ。

 体癖は現れ方も整っている時とそうでない時は違ってくるし、自覚の有無でも変って来る。そして何よりも大人になること、つまり心の成長によって体癖という自分の主観の世界を広げ、さらには超えていくことが必要だ。

 それはまず、自分の自然として体癖を理解していくことから始まる。そして本気で生きないと体癖ははっきり表れてこない。体癖丸出しで全力で何かに取り組み、本音を認めることが体癖以前の問題としてある。体癖に関心を持つ人には類型的な観方だけではない、発達的な観点をぜひ持っていてほしい。

 

 今日は通りがかりに見かけた薄紫色のバラが何だか気になって衝動買いしてしまったのだが、後で品種を調べてみたら「ノヴァーリス」という名前だった。

 ノヴァーリスはドイツロマン派の詩人で、ユングやシュタイナーの文章で名前は見かけたことがあるが、よくは知らなかった。『青い花』という作品があり、どうもそこからつけられた名前のようだ。はかなげで幻想的な雰囲気の花だが、じつは丈夫で育てやすいとのこと。見た目だけでは分からないのは人間も一緒かも。
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不思議な出来事

 ちょっとオカルトっぽい話なのだが、初めての経験だったので書いてしまった。今回は抵抗のない方のみ読んでいただきたい。

 

 このところ指導をしている人の父親が終末期にあることについて書いていたが、その人から父親の状態が変わってきたというメールが来た。

 私はこの人の父親に会ったことはないが、いろいろと性質や体の特徴などの話を聞いていたからか、初めて話を聞いた時から漠然と「満月前後に亡くなるだろう」、そして「泌尿器系の働きが止まったらまもなく亡くなるだろう」と思っていた。

 潮の満ち引きと人間の体は共鳴していることはよく知られており、昔は西洋医学の病院や助産院には旧暦や潮の干満表があったそうである。

 しかし、長い間病院で体の状態を管理される状態を経て亡くなる方はそうばかりとは言えないようで、出産も昔ほど潮の干満に一致しなくなってきているという話を、自然分娩を行う助産師から聞いたことがある。

 ちなみに整体の師匠が亡くなったのは新月の日で、満潮の2時間程前だった。そして指導をしている人の父親は満月の二日前の夜、干潮の20分程前に亡くなった。

 私はその夜、その人(指導をしている人)に遠隔愉気をしていた。遠隔愉気というのは体に触れることのできない、遠くにいる人に気をおくる(愉気)するということである。

 私の直接の師匠はあまりやらなかったのだが、野口晴哉は指導者になるための講義の中で遠隔愉気の練習をすることを勧めている。私は師匠の体調が悪くなり始めてから、時々密かに師匠に遠隔愉気を行うようになり(身体も毎日観ていたがそれとは別に)、師匠が亡くなった後もたまに行うようになっていた。

 遠隔愉気をする時は、相手の姿をはっきりとイメージしてから行うのだが、最初はできていたのに、途中から以前写真で見せてもらった、その人の母親が出てきてその人の姿が見えなくなってしまった。お母さんが訴えるような目で私を見つめながら、正面に立っているのだ。それがしばらく続いたので遠隔愉気を中断し、どういうことだろう?と思った。

 その日は何となくそういう気になったのでお水とお灯明、お香をあげて、その後寝てしまったのだが、朝起きると父親が亡くなったというメールが来ていた。

 亡くなったのは私が遠隔愉気をしていた30分ぐらい後だった。そして私は、お母さんはお父さんが亡くなると伝えたかったんだ…と思ったのだった。私が思っていたのより数日早く訪れた死だった。

 その日の夕方、私は真っ白な小輪の撫子と薄紫のエゾ菊を活け、ささやかにご冥福をお祈りすることにした。

 指導をしている人にこのことを話そうかどうか迷ったのだが、怖がられたり引いたりされると困るので話さずに終わるのではないかと思う。自分も確信を持って話す自信がない。

 でも、不思議なことは起こってしまうものなのだ。それが現実かどうかは、多分私が決めていいことなのだと思う。

 それから私は掘ったばかりの里芋で芋っこ汁(芋煮の岩手県版)を一所懸命に作った。前から一度東北の芋煮を食べてみたいと思っていて作ってみたのだが、いきいきした根野菜の味が「私は生きている」という実感を呼び起こしてくれた。

 遠隔愉気もいいけれど、体を基とすることはやっぱり大切なのだ。気に非常に敏感で、神経過敏と言えるようなところもあり、体の基礎作りに努力を重ねた私の師匠は、生の実感こそを大切にしていたのだと思った。

浮世離れ

 ここ3、4日、熱海にいた。私はかつて長いこと熱海に住んでいたから、懐かしい思い出深い場所である。そして今回、改めて熱海という土地の持つ、少々浮世離れした特異性を改めて感じられたように思った。何というか、裸になれるような、素の自分に戻っていくような気がするのだ。

数日間の滞在ではあったが、熱海で整体の師匠といたころの自分を振り返りながら、今の生活でいつの間にか溜まっていた心のくすみのようなものを払って澄んだ状態を取り戻せたような気がする。

 熱海に向かう前、指導をしている人から終末期にある父親についてのメールを貰った。私も父が胃摘手術後の恢復期にあるので、何となく共時性を感じながらそれを読んだ。

 私は『病人と看病人』(野口晴哉 全生社)を読むことを勧めたのだが、その人は読んだ後に「そばにいることで安心感を与えられるようになりたい」と思った、と言う。一番大切なことを掴んでくれて嬉しくなった。こういう本というのは経験して初めて分かるようになる内容も多いので、読んでもらえて良かったと思う。

 私は整体の師匠が亡くなった後この本を読み返したのだが、その時は自分の至らなさが思い出されて悲しかった。私はどこか先生に甘えたままだったのだと思う。そういう私と較べると、私が指導している人は気がしっかりしていると思う。お恥ずかしい限りだけれど、こうやって私も一緒に学んでいくしかないんだな、きっと。

 なんだか、熱海で受けた影響か、頭があんまり働かない…。又思いついたら書くことにしよう。


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己れに背くもの

 先日、円形脱毛症になった人の話を聞く機会があった。男の人で髪も沢山ある人なので、髪をかき分けなければ分からないのだけれど、やはり気になるもので、見ると胸が痛んだ。

自分でできる手当て法も教えたが、こういうことは何と言ってもストレスを切り離して考えることはできない。本人もそれは分かっていて、頭では片づけたつもりであっても「体は正直だ」としみじみ言っていた。

 最近、円形脱毛症は自己免疫疾患として考えられるようになり、自身の免疫系が毛根を攻撃してしまうことが分かってきたそうだ。

医学的にはストレス要因だけではないという意味で出て来た説なのだが、自分で自分を攻撃してしまうという状態には、感情の内攻がかくれていることが多い。怒りなどの攻撃的な感情が内攻して、意図せずに自分を攻撃(自己破壊)するようになってしまうのだ。

 ストレスの対処法とか、人間関係の対処法とかいうものはたくさんあって、教えてくれる人も大勢いるし、こうした方が良いと考えることは自分でもできる。しかし、心と体の緊張を弛めることなくそれを適用しようとしても、実行は難しいし人間関係も変わらない。

 野口晴哉は晩年、講義の中で「本当の健康は、人間の心を指導しなければ得られないものだということを知りました」(『月刊全生』)と言っている。しかしそれは「どうすればよいか」を教えるということではないのだ。

 まあともかく、円形脱毛症についてもう少し勉強してみようとも思っている。

 

己れに背くもの

人間の心の中には、いつも、自分を丈夫にしようとする心のほかに、自分に背いて自分を駄目にするように働く心がある。

自分に背いて自分を壊すもの、破壊へ導くもの、それは心の中にも体の中にもある。もっと極端に、自分を死なせようとする方向に動くことがある。

人間というものの中には、お化粧してでも立派に見せようとする働きがあるかと思うと、その逆に、意識してのそういう自分に背いて、それを壊していこうとするものがある。

普段我々が大事な要件を忘れたり、他人の大事なものを壊してしまったりすることの中にも、反抗の精神や、反感の潜在意識が多分にあるのであって、偶然起こる現象は殆どないともいえる。

それが自分に背くこと、自分を壊すということであって、敢えてそれをやる要素は誰の体の中にもある。

誰でもみんな、自然に健康になる方向にだけ心が働くのなら、潜在意識教育など要らないのだが、健康に生きることに背こうとするもの、死に至ろうとするものが誰の潜在意識の中にもある。

野口晴哉

国宝・東京国立博物館のすべて

 今、東京国立博物館

tohaku150th.jp

という展覧会をやっている。できればこういうビッグイベントの時に見に行くのは避けたかったのだが、どうしても見たい絵(あまり公開されない)があって初日に出かけることにした。20日から旅行支援が始まるのでせめてその前にと思ったのだが、それでもすごい人出で外国人の姿も多かった。

 展示会のテーマが「国宝」なんて漠然とし過ぎているとは思っていたが、本当に絵巻物やら刀剣やら埴輪やらが「国宝」という括りでこれでもかと並べられているのには恐れ入った。

 こういう時には見たい絵に集中するに限る。私は目当ての「虚空蔵菩薩像」(平安時代)に向い満足するまで見ることにした。それでも最後まで見ておこうと思い、お昼休憩を入れて二時間ほどは中にいた。

 それにしてもミュージアムショップのレジの行列の長かったこと…。図版目録ならすぐ買えるのだがグッズのレジが長蛇の列なのだ。そうまでして買いたいものがあるということなのだろうが、私にはよく分からない。

 今回の目的である虚空蔵菩薩像は、戦前に井上馨から三井家に渡り東博に寄贈され国宝となった仏画だが、由来がはっきりしていない。

 虚空蔵菩薩に信仰の篤かった、鳥羽上皇の皇后・藤原泰子の発願で描かれたという説が有力だが、保存状態が非常に良いことからあまり外気に触れることなく大切に保管されてきたと考えられている。

 仏画というのは厳密に決められた仏の特徴に沿って書かれ、様式化されているのだが、この虚空蔵菩薩の顔は仏画の様式から離れており、仏師ではなく絵師が顔を描いたのではないかと言われている。

 私はその論文を読んでから、この絵は藤原泰子が自分の顔に似せて密かに描かせた絵なのではないかと思っていたのだが、今回実際に絵を見て、これは仏ではなく藤原泰子の顔だ!という確信に近い感じがあった。

 図版では真正面からの顔になるのだが、今回の展示では虚空蔵菩薩を私の目線だと少し見上げるような位置から見ることになる。仏画はそういう位置から見るように書かれているものだが、そうやって見ると図版で見るより頬がふんわり丸く眼も優し気で、もっと女性的・人間的に見えるのだ。

 藤原泰子は30代後半になってから上皇と結婚した藤原摂関家棟梁の娘で、結婚生活はあまり幸せではなかったと言われているが、同じく国宝である扇面法華経冊子(扇紙に法華経と市井の人々や内裏の人々などの絵を描いた)も藤原泰子の発願という説が有力である。私は仏教の信仰が深かった泰子は女人成仏を願って仏画を描いたのではないだろうかと想像している。

 私は丹田虚空蔵菩薩に向け、全身で見ることに集注した。すると虚空蔵菩薩の姿が3D画像のように画面から浮き上がりはっきりと見えてきた。仏画というのはこうやって見るのが本当なのだと思った。

 その日は結局、本館・東洋館・法隆寺館も見てしまい、午前中から夕方近くまで国立博物館にいたので、帰りにはへとへとになってしまったが本当に充たされたという気がした。本館の建築が良いのにも驚いた。

 本館の展示室で外国人ツーリストが展示物を見ながら「Amazing…」と呟くのが聴こえてきたのだが、やはり感動を持って見てくれるのは嬉しいし、同時に価値を教えられたような気がした。今思い返してもいい一日だった。


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