アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

終わりと始まりの間

 今日は淡路島から送られてきたばかりの野菜を下ごしらえして、冷蔵庫にしまった。お昼には淡路島ブロッコリーを蒸らし炒めにしてバターを絡め、夕ご飯は淡路島春菊の卵とじ、分葱のぬた。野菜ばかりだが、おいしくて身体がすっきりした。春は毒出しの季節だとも言われるが、そういう感じだ。

 それにしてもずいぶんと長い間、このブログを書かないでいたものだ。言い訳はたくさんあって、書こうかとも思ったけれど、まあいいか。

 この間にも心が動いたことはたくさんあって、書こうという気にもなったのだが、気がかりなことがあったせいで自分の気持ちをまとめるのが難しかったのだ。その気がかりなことも良い知らせが来て、ようやく書いてみる気になったのだ。

 今は身体が開いていく時期ではあるが、私は骨盤と神経系を中心とした変動が大きく、体調があまり良くない。熱がさーっと体を廻るような感じ、顎の痛み、肩や首、仙骨部の痛み。目のかゆみやくしゃみもあるし、主に喉をやられている。

 こういう時、私は年末に作り置いた柚子ジャムを蜂蜜とともにお湯にといて飲むのだが、ほとんど「服薬」という感じに効くのが不思議だ。自分に適ったものを見つけておくと安心である。薬に頼っているようで少々気が引けるけれど。

 ブログが書けなかった期間、そして今という時は、何か一つのタームが終わろうとしているのだと思う。ちょっと気持ちが内向きだったのは、次の段階が見えてこなかったからかもしれない。今は見えてきたので安堵感と弛みが来ていて、ちょっとぼんやりしたり、眠くなったりもしている。

 昨年まではマスクをしているから花粉症も軽いなどと言われていて、実際私もコロナ期間中症状が軽かった。しかし今年は同様にマスクをしていても昨年とははっきり違う。

 今年は花粉の量が昨年より多いとも言われているが、症状の強さには花粉の量よりも自分の体が花粉という刺激をどう感受し、反応するかが大きく関わっているのだと思う。そして私の身心は、何かが終わり、何かが始まる時に適応するため、花粉という刺激を必要としているのだろう。私の意識は必要としていないのだが…。

 花粉症はあるけれど、ちょっと一人旅に出てみたい気分でもある。以前、指導をしている人から教わった、千葉県香取市の佐原という古い街並みと香取神宮に行ってみようかな、と思っている。

「思いもうける(そのつもりでいる・心の準備をする)」という言葉は高校生の時に向田邦子の本で知ったのだが、古語にも「思ひ設く(おもひまうく)」という表現があり、古い言葉なのだそうだ。野口晴哉は想像することで実現すると言う。この旅を思い設けることにしよう。