個の理解と潜在意識
先日、ある人に亡くなった整体の先生の著書を送ることがあった。
この著書は先生の整体指導をまとめた本で、野口整体関連の本と言うと方法論的なものが多い中、潜在意識と個人指導の体験談などが盛り込まれた内容だった。今は絶版になっているが、5刷まで版を重ねた。
しかし、この本を出した出版社の社長は、大変失礼なことに著者を目の前にして「この本がなぜ売れるのか分からない」と言った。
先生は、「分かる人には分かるが分からない人には分からない、というのが潜在意識や気というもので、出版社より一般の読者の方が理解力があるということだ」と、先生も本人に直接言っていた。
やっぱり著者が主観で捉えた世界というのは、読む人も主観で(知的にではなく心、そして身体感覚で)理解する必要があるのだが、先生の著書は中○公論の編集者にも「普遍性がない」と言われたことがある。整体の世界を表現する、伝えるというのは本当に難しい。
そんな先生の本なのだが、送る時、この本の帯に使った野口晴哉先生の若い時(昭和8年)の言葉を久しぶりに目にした。それは次のようなものだ(帯に使用したのは最後の三行)。
いのちの智慧は総てを知る。
之に任せて生くるものは、無限成長のいのちの導きに接することが出来る。
いのちの真理を悟らぬことが、行詰りの本当の原因だった。
眼玉を捨てろ。
意識から離れろ。
然らば、道は自づから開かれる。
これは、まあ自慢なのだが、何刷りかの時に帯を変えられることになった時、先生に「帯に使えるような野口先生の文章を探してこい」と言われて、私が野口晴哉著作全集の中から探してきたものだった。
文句なくカッコいいし、帯のキャッチコピーとしても完璧!と、私は当時思ったものだ。先生もほぼ一択という感じでこれに決めてくれた。
確かにこれは、創成期の野口先生のスピリットというか、勢いが漲っているし、野口整体の精神を鮮烈に伝えていると思う。
しかし、今振り返ってみると、晩年の弟子であった先生につながるものを選んだ方が良かったかな・・・とも思う。
この部分が入っている文章の全体は、「「全生の会」発足に当って」という題で、生命という大きな視点から人間を観る視点から全生について述べられていて、集合的無意識という面を強く感じる。
そういう面は野口先生にはずっとあると言えばあるのだが、晩年は「個人の理解」という面が強くなっているように思う。
体癖についても、「良い子どもが生まれるには体癖的な相性が重要と考えていたが、最近では個々の成熟度の方がずっと大切だと思うようになった」と、晩年述べているのを読んだことがある。
先生の観方は、というより実際に人を観察する場合は、「個」を理解するというところからしか入れないのだが、やはり「大きなお話」より、個人的なことに重点が置かれていたし、個がはっきりしてくることを指導のメルクマールにしていた。それが先生の指導の個性であったと思う。そして、個性というのは、客観ではなく主観(感情と感覚)で捉え、理解するものだと言った。
まあ、昭和八年当時の人達の方がずっと個性がはっきりしていて、今の私たちの方が個性化していない(だから個の探究を強調するようになった)という事情もあるのかもしれない。
今だったら、こういう内容はどうだろう?ちょっと長いけれど、紹介しておきたい。
医学という学問では、個人ということをことさら抜いておき、個人の体力やら個人の生活をみんな抜いております。それはいろいろな違いがあったのでは迷惑ですからヒトというカタカナで書いて、生物学では人間一般を表わしております。
こういうものだけを研究している。ほんとはヒトではなくて人の内臓の研究なのです。個人個人がいないのです。医学的な技術には個人がいないから油断しているとモルモットにされてしまう。
個人の為に行なわれるのではない、学問の為に行なわれるからだとも云えるわけですが、まあその点運動系の機構を丁寧に扱っていくと、そういう個人から離れての運動系はない。
個人の暮し方はいつでも運動系に表現があり運動系には個人の生活の歴史がある。そんな面で運動系の観察ということを丁寧に行なっていくことが、個人を理解する近道になると感じるのです。
(1967年、先生が入門した年の初等講座での講義より)