アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

気と生命時間

気と生命時間

天の下雷行き、物ごとに无妄を與う。

(天の下で雷が鳴り響き、万物に生命を与える)

先王以て茂んに時に対して、万物を育す。

(古代の聖王はこの理に則り、天の時に応じて万物を育てる)

(『易経』无妄)

 

 中国の古典『易経』は、東洋思想の根幹ともいえる書で、筮竹占いの本というより哲学書というべきものだ。

 この『易経』の中では、すべてのものが、生まれ、成長し、成熟へと向かい、死を迎えるという生命時間の中にあると考えられている。その変化をもたらす力が「気」であり、人間の自然な生き方はそのはたらきに従うことにあるとされてきた。

 最初に引用した「无妄(むぼう)」というのは「じねん(自然)」という意味で、いつわりのないこと、本然の性という意味がある。「天心(天の心)」に適っているということだ。

 整体では「天心」であること、自然であることを中心に置いているが、『易経』の説く自然の理がその大元にある。

 私の整体の先生は、「一側(脊椎の一番際にある線で脳と仙骨部をつなぐ)に愉気することは、その人の過去に愉気することだ」と言った。先生が受けた最初の初等講座で、野口晴哉先生は黒板に「背骨は人間の歴史である」と書いたそうだが、そのことを意味するのだと教えてくれた。

 野口先生は気というものに付いて次のように述べている(『月刊全生』無限なる愉気)。 

天心は自然につながっているのです。だから使うほど良い。愉気というのは自分の力を人に伝えるのではなく、自然の力を通す窓のようなものなのです。だから光(気)を通す毎に窓はいよいよ開いて大きくなる。 

 野口先生は、指導する立場とは「育てる立場」に立つことだと言う。まず自分の体を育てることから始まって、それから人を育てる立場になっていくのが修行だが、育てる力の中心にあるのが「気」、愉気である。

易経』の世界観が述べているように、気というものが万物を育て成熟へと向かわせる力だとすると、それは生命時間の流れであるとも言えるだろう。

 前回書いたように、私には身心の発達が止まっていた部分があったので、指導者の愉気と自分の体に気を通すことで、本来の生命時間(自然)に戻る必要があった。どこかが過去に止まったままではなく、全身全霊が「今、ここ」にあるようにするためだ。

 人によって経緯はさまざまだが、天心を取り戻し、自然に戻ることが整体の目的なのだと思う。整体では、子どもの歯が生えるのも、歩きはじめも「ゆっくりの方が良い」と指導するし、自我意識が早く発達するのを避けるために、鏡も見せない方が良いと言う。意識が早く発達するということは、天心から離れるということでもあり、子どもの時間を長くして、ゆっくり大人になる方が、体が丈夫に育つし長生きできる。

 ただ、成育歴というのは、悩む人と悩まない人がいて、私よりはるかに悪いと思える環境にあった人でも悩まない人もいるし、成育歴による問題が顕在化していてもなお感じない人もいる(それはまた違う問題ではあるが)。

 そこにはやはり自分の性質、感受性というものがあって、私の母はあまり母性的な方ではなく、私は母性を求める性質だったことも関わっているし、宗教性に対する要求のあるなしというのも影響するのではないかと思う。

 先生が亡くなってもうすぐ一年が経つ。修験道の僧は「一年経ったら変わる」と励ましてくれたが、こんなふうに先生が教えてくれたことを思い出すと、やっぱり涙が出る。でも、痛みがなくなって、心が澄んできたような気がする。私は経過しつつあるのだと思う。