アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

大脳を中心に生きる人―上下型体癖

上下型体癖

 野口整体の「体癖」という観方について、このブログでも何回か書いた。ある人の体癖を観る場合、その人の心と体がどういう風に動くのかを観察するのが着手になるのだが、今日は上下型体癖について書いてみようと思う。

 上下型というと、典型的イメージは、背が高くて首が長くて、動作がゆっくりで反応が一拍遅れている、客観的・・・という感じで、立ったり坐ったり、など動作する時、まず最初に首から動き、よくうなづく、といったところだろうか。あとは眠れないことや、睡眠時間を気にするというところかな。

 しかし、そういう面が外に出ていない上下型もあり、小柄な人で首が上下型なんていう人もいるので、あまり固定的に見た目で判断することはできない。

 前に、私は捻れ型八種が苦手だった話を書いたが、苦手というより自分と相当に違う種族だな、と思うのは上下型だ。それだけに、本人は「常識」だと思っているその世界観は興味深い。

 前回紹介した『霊療術聖典』の中に、「大気養法」という透視・念写で有名になった人が開発した方法が載っているのだが、その精神統一法に「精神旅行」というものがある。

 それは、過去に旅行し脳裏に印象を止めたことのある場所へと氏は精神旅行によって「精神入湯」(温泉入浴)をしろ、とまで言っている。そして「当時を想起し、その当時における自己となり得たならば、精神を爽快にし、昂揚し得るは勿論、疾病をも治癒し得る」と言うのだ。

 野口晴哉先生は「上下型は旅行の計画が完成すると、実際に旅行しなくてもそれで満足する(机上旅行)」「頭の中で運動会を開く」と述べているが、この行法は上下型のある人が開発したのではないかと思う。行動的な捻れ型や前後型の弟子には苦行だったことだろう。

 また、この行法では「観念」をすべての要求力とそれを果たす力であるとし、一切を実行する原動力は観念であると述べている。そして「義務と責任を果たす上に働く力」という言葉が「一切」の例の筆頭に出てくる所も併せ、上下型的で興味深い。

 野口先生はよく「上下型は毀誉褒貶(きよほうへん・褒めたりけなしたりすること)を重んずる」と言うが、これは「人に(自分が)どう思われるか」が非常に気になるということだ。

上下型は自分の感じたこと、思ったことは信じていないし重要だとも思っておらず、人が言ったこと(皆が言っていること、常識的なことを含む)を信じる傾向がある。明文化されていると説得力が増すようだ。

 そして自分のことは、いつも「これでいいのだろうか、本当はどうなのだろうか」と疑念や不安を持っている。

 つまり自分の体(感覚や感情)とは関係なく、頭(大脳)で判断したこと、考えたことが「現実」なのだ。上下型にとって「皆が正しいと判断するだろう」と考えたこと、「こうするのが正しい」とされている通りにすることが「要求」であって、自分の中から直截に出て来た要求に従って行動することではないのだと思う。

 先の「大気養法」では「観念が一切の実行力である」と説かれていたが、上下型には真実なのだ。

それでもあまりに頭に支配されることに偏ると、自分の体がついていけなくなるし、他 人のことも頭で対処しようとするので、やはり体癖修正は必要だ。

頭から体へのダウンロードは早いが、体から頭へのアップロードは遅いので、感じることに注意を集めていくことと、頭の過度緊張を弛めることが大切になってくる。

どの体癖の人でも、頭の緊張が強くなると上下的になってくるし、重心が高い現代人はその傾向が強い。今西錦司(註)という学者は、「人間は大脳で環境に適応する唯一の動物である」と言ったが、上下型を理解するとそれがよく分かる。そして、大脳の発達と、自然から離れていく傾向は一つのもので、良くも悪くも人間という種の特徴を生んでいる。

 野口先生はハンス・セリエのストレス学説を上下型二種の説明そのものだと解説していて、ストレス学説から上下型を理解するのもいいかもしれない。

 体癖としてではなく、人間の特徴をまず勉強するという視点で上下型を理解するというのが「正しい」!と思う。

(註)今西錦司 固体の性質が有利に変化し、その性質を持つ個体の割合が多くなることで種が変化するというダーウィン進化論に対し、「住み分けと多様化」という共存原理による進化を説いた。今西は、個体ではなく種単位で変化が起こると述べている。