アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

他愛のない体癖の話ー捻れ型・八種の心と体

捻れ型体癖

 今回は思い切って、体癖の一つ、捻れ型について書いてみようと思う。なぜ「思い切って」なのかというと、捻れ型のある人は捻れ型と言われると怒る人が多いので、それを怖れているからである(野口先生も「言えない体癖」などと言っている!でもご自身にもある)。

 印鑑を押したり、署名をしたりする時につい体を捻ってしまう癖があって、骨が太く、関節が大きい傾向があり、頻尿か排尿不調のどちらかの傾向がある、汗っかき、胴が太い。

 また、衝動的に行動し、やりすぎてしまう、頑張り屋または我慢強い、風邪を引くと最初に喉が痛くなる、帯状疱疹になったことがある・・・という人は、捻れ型があるかもしれない。

 捻れ型というと「勝ち負けにこだわる(関心が強い)」というのが特徴なのだが、七種は勝気で、一番になりたがるし、八種は負けん気で、二番手以下のほうが安定する。

 七種は挑戦し、八種は自分を守るために戦おうとして気張っているという言い方もできるかと思う(ブログ、匿名で良かった・・・)。

八種について

 私は七種というのは理解できるし、付き合いやすい人は七種が多かったが、八種というのは理解しにくいし苦手な感じがあった。八種の人には「負けたくない」特定の人がいて、その「特定の人」に自分がはまってしまうとすごく大変なのだ。

 でも、私が観ている人で一番付き合いの長い人は八種体癖が強いし、周囲に八種は多く、苦労したので研究もした!前置きが長くなったが八種について書いてみたい。

 八種の人は「言葉」が出にくい(口が重い、発話が苦手)ことを気にしている場合が意 外とある。

 本来、捻れ型は声が大きくていい声の人も多く、歌手は捻れ型が多いのだけれど、体調を崩すと声そのものが出にくくなるようだ。こういう時は気の鬱散がつかないで、停滞していたり内向していたりする。

 その内実はほとんどが感情で、多くは「悔しい」「負けた」という感情が内にこもってしまうのだ。

 しかも必要以上に、または我慢すべきでないことまで我慢してしまう癖(我慢強いのが良い面に発揮される場合もある)があって、自分の感情が良く分からなくなってしまう(でも他人には「不貞腐れている」表情として見える)。

そして、次第に言葉の聴き取り(耳の働き)がしにくくなったり、大きな音・声に過敏 になったりする。

 こういう時、八種のある人は「水を飲まない(飲めない)」ようになり、「汗も出にくく」なり、「おしっこも出にくく」なるし、顔などもむくみっぽくなる。

 しかし整うと水の流れ(排水)も言葉の流れも良くなり、水も音もスムースに入ってくる。特に大切なのは「汗」で、八種の発汗は「言葉の出方」にまで及ぶと私の整体の先生は言っていた。

 七種のある人も体調を崩すと八種的になってくることが多いので、思い当たる人はいるかもしれない。

 八種の有名人は意外と多く、柔道の井上康生氏などがいる。東洋的な武道、野球の守備的ポジションをやる人は捻れ型八種のある人が多い。

 八種の良い面は「続ける力(腰)」を鍛えることで引き出される。何かをやる時も、七種の人は負けが見えると投げ出すが、八種は粘りづよい。また人間関係において、八種の人は関係を「切る」ということがあまりないと思う。

 体癖は整っていない時、またその人の自然が歪められるような成育歴、または生活があると体癖は悪い面として出てきやすい。

また、体癖的特徴を「欠点」と感じている人も多く、捻れ型の人ほど「勝ち負けにこだわるのは良くない」と思っていたりする。体癖だからそのままでいいのではないし、良い体癖・悪い体癖というのもない。「体癖習性」のために体癖を理解する、というのが本当ではないかと思う。

体癖修正については、またいずれ。

野口整体のこれからを考えてみた

整体を伝えていくために必要なこと

 最近、いろんな人のいろんな話(あんまり詳しく言えないけれど)を聴く機会があった。それによると、野口整体は、今、岐路に立っているという。

 野口先生の説く行法を行うことが「整体」であって、整体とは何かは野口先生が定義するという時代があった。その後、私の先生のような直弟子の世代を経て、これから整体をどう伝えていくかが課題となっているようだ。

 しかし、文化財のように「遺す」とか「絶やさない」とか、「保存」しようというような発想では伝わらないのが整体の難しいところなのだろう。

実践する人と、伝えていく側の両方が、生きていく上でどのぐらい「必要性」と「大切さ」を感じているのかが問われているのだと思う。

 私の整体の先生は、生い立ちにも恵まれず、体も十分ではなく、感情が凝固する傾向があって「若い頃は気が散りやすいことに苦しんだ」と言っていた。

 心にも体にも問題があって、生き難さを抱えた先生が、整体指導を仕事にしていくためにはそれを乗り越える必要があり、自分に対する技術、行法として整体に取り組んだのだった。

 そういう先生が、最初に野口晴哉先生に評価されたのは「思想面の理解」においてだったと聞いている。人間観、病症観、といった整体のものの観方、価値観、美意識といったことだが、野口先生の説く思想面に関心を持つ人は当時少なかったという。操法、治し方、対処法、愉気や活元運動の誘導の仕方などの「方法」を求める人が多かったのだ。

 しかし、晩年の野口先生は「思想のないものは滅びる」と考えていた。私も月刊全生でそのような内容を読んだことがある(たしか月刊全生「健康に生きる心」)。様々な手技療法、健康法も思想のないものは皆廃れていくのを長年見て来たからだろう。

 先生が初等講習を受け始めて、最初に「背骨は人間の歴史である」と黒板に書かれた時の衝撃、そして講義の中での「人間か病気になるとはこういうことか!」という感動など、私は当時の話を先生から聞いたことがある。年配の人が多かった講習生の中で、まだ本当に若かった先生の新鮮な反応は、野口先生にも伝わっていたようだ。

 今でも、整体のような身体的な世界で「思想」などと言うと、「頭先行」「理屈倒れ」のように思われがちだし、実際に体(自分にも相手にも)に対する対応力がなければどうしようもなく、その方法論を学びたい人の方が多いと思う。

 そういう現実はあっても、私の先生も晩年、思想の理解を指導に来る人にも弟子にも求めるようになった。それは、野口先生が自分に期待した「整体の理念・思想の普及」に寄与したいという思いがあってのことだった。

 しかし先生は、自身の力が及ばず、その信義を果たせないという失望で病となった側面がある。先生は亡くなる五日前まで指導をやりぬいたが、それは亡くなった後、野口先生の面前で恥じることのない自分であろうとしたからだと思う。

 最晩年、先生は、自分が生きる上で「整体」はどういう意味があって、どれほどの必要性、重要性があるかを、弟子に考えさせ、文章を書かせた。それは晩年、先生自身が取り組んできたことそのものだった。

 先生はそこに、整体が命をつなぐ道があると考えていたのだ。そして私も今、本当にそうだと思っている。そして、行法に意味と目的を付与する思想は、野口整体野口整体であるために、必要不可欠なものだと思う。

 

骨格筋の生理と心理 2

意識運動と無意識運動

 2月12日はダーウィンの誕生日で、Bingのトップページがダーウィンフィンチとガラパゴスゾウガメの写真だった。アルダブラゾウガメは親戚にあたるので、何となくうれしい。

 

 ところで前回(1)の、野口先生の引用文からも分かるように、整体では意識と無意識を体運動(運動系だけではなく生命活動全体)に即して捉えている(意識運動=意識、無意識運動=無意識)。

 整体で「生活の中心」としていく要求・意欲・自発性・主体性(一言で言えば元気)・・・というのは無意識から意識へと浮かび上がって体に顕れてくるものだ。

 だから活元運動では「錐体路系という一種のブレーキ」を弛めることによって運動系の無意識運動がはたらきやすくなるようにする。

 そのために頭がぽかんとする必要があるし、最初にある程度緊張を弛める必要がある。無意識運動が闊達に、素直に外に出ることが大切なのだが、随意筋がその発露を抑えてしまうことがあり、そこには心理的要因(潜在意識)が大きく関わっている。

 以前、伝統的な自然体の立方(上体の力が抜けた状態で、腰で立つことを教える機会があり、その時、ある男性が「意識的に力を入れていないと立った姿勢を維持できないと思っていた」と話してくれたことがある。

 その人はスポーツマンで、肩や上体の筋肉はよく発達して背も高かったが、骨盤そのものが小さく硬かったのを覚えている。優しい人だが、仕事上においても生活面においても自分がどうしたいのかが分からない傾向のある人だった。無意識運動としてはへたり込みたいような状態に、意識的に力を入れて、「立たせていた」のかもしれない。

 

 今度は平均化訓練のことを考えてみよう。

 今、私は平均化訓練のユニークなところは、筋肉の「動かない(動かなくなっている)ところが浮かび上がってくる」ことにあると思っていて、そこに一番、興味を持っている。

 活元運動でも分かるのだけれど、その時の身体感覚に独特なものがあって、薄暗い全体の中で、動かない所にスポットライトを当てられるような感じだ。

 前回の会の後半で感じた胸の硬さと痛みはちょっと深くて、時間内には終わらなかったけれど、自分の体の状態を把握し、整える上で大きな助けになった。

 滞りが分散していく波(平均化ってこれのこと?)、体に自ずと力が入ったり抜けたりする運動、その後浮かび上がってくる箇所、こういうことを感じ取るのは意識だが、全身に伝わる波も、箇所を教えてくれるのも無意識のはたらきである。

 

 平均化訓練講座は若い人(ことに男性)の参加が多く、きちんと取り組んでいる様子が、いいな・・・と思う。野口晴胤先生が巨匠・野口晴哉の孫で、カリスマ視して来ているなどという様子はないし(そんな気持ち悪い会なら私は行かない)、野口整体がやや高年齢化の傾向にあることを思うと、どういうところに良さを感じているのか、聞いてみたいと思う位だ。

 野口先生は、活元運動の誘導は「人間の裡に健康を保っていく力の在ることを立証する方法の一つである」(『人間の探究』)と言う。私は初めて活元運動が出た時、自分の中に無意識というものが動いていることを体で実感し、本当に感動したものだった。

 活元運動とは違うけれど、無意識のはたらきを若い参加者が体験できるようになるためにも、平均化訓練は役立てるのではないかと思う。

 

骨格筋の生理と心理

要求と運動系

 先日、知人宅で「立ちたい要求はあるがまだ立てない赤ちゃん」に会う機会があった。その子はおすわりしたまま楽しそうに飛び跳ね、お尻が床からぽんぽん浮いていて、この運動をほとんど骨盤部(仙骨部)の力だけでやっていた(大人にはできないと思う)。

 そのように腰が自然に鍛えられる過程を経て、立てるようになるのだろう。私はその力強さに驚き、人間に「立つ」という要求が出てくる時は、まず「腰から立つ」、それが手足に連動するのだなとつくづく感心してしまった。類人猿が初めて二足で立ち上がる時も、「腰から立った」に違いない。野口晴哉先生の言う「真ん中の力」、「もう一本の足」である。

 でも、大人になってみるとどうだろう。頭で体に命令して「重い腰を上げる」ようになっていないだろうか。手でよいしょ、と体を持ち上げたりして・・・。

 野口先生の著書に、思春期の潜在意識教育についての内容をまとめた『思春期』(全生社)というのがある。整体を学び始めた時、これをよく読んだものだが、最近また読み返している。

 その中に、25歳の統合失調症(引用文中では精神分裂症。現在は使われていない病名)で入院した男性についての相談に答えた文章(月刊全生の記事)があり、随意筋についてこんな記述があった。

先入主的な偏見

私達の体は胃でも腸でも、いつも絶え間なく無意識の運動を繰り返しているのです。しかし随意筋には特殊なブレーキがついているのです。そのために随意筋は意識して動かすことが出来るのです。だからお酒を飲んで酔払うと、そのブレーキが緩んできて活元運動と同じような無意識の動作になってくる。

 随意筋には錐体路系という一種のブレーキがあって、それが運動系にゆく無意識運動を抑えているから、意識運動が出来るのです。

 欲求不満が亢まって錐体路系だけでなく、潜在している心につながるブレーキまで毀れてしまって、心の中にあるものが全部率直に出てしまうのです。・・・人間の欲求、欲望などは、ある程度抑えつけた方が安全です。だから抑えつけること自体は異状ではない。ただ抑えつけ過ぎてブレーキを毀してしまうと精神分裂症状を起こす。

 超臨床的なので誤解のないように付け加えると、今回、私が焦点を当てたいことは統合失調症ではなく、「随意筋にブレーキがついている」というところで、ここについて考えてみたい。つづく。

(註)運動系 神経系のうち、全身の運動(動作)に関わる部分のこと。運動系は、随意運動を司る錐体路と、その他の錐体外路性運動系(錐体外路系)に大きく分けられる。

 

 

もう一回、平均化訓練講座

 今度新たになった講座は平均化体操の会ではなく、平均化訓練講座という名前だった。失礼しました。

 ところで今日、野口晴哉先生の資料を見ていたら、「楷書と行書」というお話が出て来た。これは先生の講座の中でのお話で、野口先生はこんな風に言っている。

〇楷書と行書

「楷書 行書 草書」

・・・行書というのは楷書をくずしたものです。私の普段やっているの(操法)は行書をさらにくずした草書的なものです。

・・・楷書の時にはこちらのやり方が主になっている。行書の練習では相手の体の動きが主になって行く。

・・・やり方になった場合には必ず自分のやり方をまず覚える。そして今度はそれを相手の体の動きに合うように、みなさんの知恵で組み立て直して使う。

 これはお腹の操法についての喩えで、中略が多くて分かりにくいかもしれないが、楷書というのは触る処と構えを覚えること。実際に相手の呼吸・体に合わせた操法を行書・草書と言っている。

 まず楷書を自分で覚える必要があるけれど、相手がある場合は行書・草書でないと実用にならないし、自分だけの一方的なやり方では相手の力を封じてしまう(悪くすると毀してしまう)・・・というお話だ。

 先生がこのお話から名付けたのかどうかは知らないけれど、平均化体操でも楷書・行書・草書と言う。楷書体は一人、行書は二人、草書は二人以上でやる(→こういう区分でいいのかあまり自信がないが、一応)。動き方の変化の仕方も野口先生のお話に似ている、と思った。 

 これを書いていたら「Show kindness to your  neighbors」という言葉を思い出した。これは古い話で恐縮なのだけれど、1997年に行なわれた第一回のフジロックで聞いた、Red Hot Chilli Peppersのアンソニーの言葉だ。

 当時、私はロックファンというわけではなかったが、先輩がイベントを主催した会社で働いており、チケットが浮いていたので、誘われて偶々行ったのだった。

 しかし前夜から初日にかけ台風の只中となり、進行も会場運営も何から何まで全て最悪で、寒くて全身びしょ濡れで雨宿りする所も食物もなく、音響も悪く、会場は殺気立ち騒然としていた。

 すると、アンソニーの怪我のため来日が危ぶまれていたRed Hot Chilli Peppersが最後に出てきて、彼は観客に向かい、真剣に「Show kindness to your neighbors!」と言ったのだった。

 私は別にファンでもなかったし、疲れ切っていたから音楽はろくに覚えていない。ロックフェスにもその後行ったことがない。でもこの時の彼と彼の言葉だけは今でも心に残っている。

 言葉そのものは、英語ではありふれた慣用表現らしいけれど、過激な言動とパフォーマンスで知られていた彼の内面を垣間見たような気がした。(若い人はRed Hot Chilli Peppers知らないのかな?そういう人はYouTubeなどを見てほしいが、そんなことを言ったなんて信じてもらえないかもしれない・・・)。

 平均化訓練は、向かい合って、または隣の人と手を合わせて行う。これには特有のフラットさと明るさがあって、「Show  kindness to your neighbors」というあの時の言葉を不思議と思い出す。

 手を合わせる人に優しい気持ちになること、そして相手の力を借りることによって、自分の中から良くなって行く力が引き出されることを、大切にしたいと思う。

(注・平均化訓練講座とRed Hot Chilli Peppersは全く関係ありません。)

新・平均化体操の会が始まる

 先日、久しぶりの平均化体操の会に参加した。その日、私はあまり体調がよくなくて、どうしようかな・・・と思ったけれど、今回から講座のやり方が変わるため、行ってみることにしたのだった。

 今回からお弟子さん?ではなく、先生が最初からお話をして下さるようになっていて、その後実習が始まった。

 一人でやる基本の運動から二人でやる運動に入る。この時、組んだ人と正面で向き合い手を合わせるのだが、最初、ちょっと恥ずかしいような、ときめくような気持ちになる。

 野口整体では、坐姿で人に触れる時は背中からというのが基本になっていて、間近で正面を向くというのはあまりないせいもあるかもしれない。この日組んだのは若い女性で、後ろからだと男のお尻でも平然と触っているくせに、と自分でも可笑しくなるけれど、人に向き合う、触れ合う時の「初心」に戻れるような、新鮮な感じが好きだ。

 休憩を挟んで、本式の平均化体操が始まった。だんだんと自分の呼吸が続かなくて、集中力が落ちているのが分かってきた。そして胸筋が縮んで硬くなっていることが分かり、そのうちに咳が出て胸が痛くなってきた。途中、5~6人でやった時、みんなの速度(隣の人と出て押し合う時の)についていけなくて運動に入ることができず、呼吸が浅くなっているのが良くわかった。

 お正月あたりから、深く吸おうとすると二段階になってしまうことには気づいていたけれど、胸の硬さを明瞭に感じていなかったので、それがはっきりとしてきたことに、はっとさせられた。

 最後に先生が、ゆっくり押し合うようにするやり方を教えて下さった。そのやり方だと流れが伝わっていくのが感じられ、「腑に落ちる」という感じがして、きちんと終えることができた。私はまだ伝導率(?)が低いのかな?とも思う。長い力でじわーっと圧が伝わってくる方が、流れや全体性を感じ取りやすい。

 これを書いていて思ったのだが、以前、先生は動きもお話も「速度のある人」という感じを持ったけれど、この日の先生はお話もゆっくり感があって、最後もゆっくり圧だったな・・・と思う。何か心境の変化があったのか、体調(波)の関係だろうか?この日の私には、そのゆっくりリズムが適っていたようだ。

 そして今回、初めて、平均化体操で滞りが分散するのを、人の体で(ほんのちょっとだけ)観察してしまった。これは先生の許可を取らずに思わずやってしまったので、ちょっと気が引けるのだが、効果を手で確かめられたのは、さわり魔の私としては良い勉強になった(でも、失礼しました。以後気をつけます)。

体を立て直すことと立ち直ること

 昨年は整体の先生が亡くなるという、私がこれまで生きてきた中では最大の衝撃ともいえる出来事があった。しかしその後、心と体を立て直していく過程で、「脱力」と「偏り疲労の調整」という整体の智慧がこれほど有難いものか、と身を以って再認識することになった。

 仏教では生きる苦しみの中に「愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)」「怨憎会苦(怨み・憎しみを感じる相手に会う苦しみ)」を挙げている。生きる上での感情的ショックとその後の苦しみから立ち直っていく上で、体から立て直していく、そこに他者の手が関与することができるというのは整体ならではだと思う。 

 

 また、誰かが亡くなるという時、時間と空間の次元が変わるのか、不思議なことが起こる。整体の先生が亡くなる半年ほど前、ほぼ毎晩観ていた先生の状態が変わった。それは言葉では表現できない、中の動きが「止まる」方向に向いていっているという恐ろしい感覚だ。

 私は何とかしなければ先生は死んでしまうと思ったが、自分にはどうしようもないことを漠然と感じていた。操法をお願いできる方がいるのなら土下座してでもお願いしたかった。しかし先生は望まなかったし、最期が近づいたことを先生自身も気づいていた(唯諾々と死を受け入れたという意味ではない)。私は足下がだんだん崩れ、自分が砂に埋もれていきそうな気持になっていた。

 そんな頃、先生が死んだという噂がどこからか流れ、知人から先生に確認の電話がかかってきたのだ。先生がその電話に出た時、私は隣にいてこれから本を出すこと、入門して51年目に入ることなどを話しているのを聞いた。

 しかし生きているのかどうかの確認の電話だったとは知らず、先生が亡くなって数か月後に確認の電話をしてきた人から事情を聞いたのだった。実際は整体協会の他の指導者が亡くなったとのことだったが、私はその話を聞いた時、心底驚いてしまった。

 先生に関わることではこの他にも不思議なことがあって、こうした特異な状態から日常に再適応していくのも大変だったが、戻るべき身心のあり方を、多少なりとも身につけていたことは大きな支えになった。

 自分の健康は自分で保つ、というのが野口整体の目標ではあるけれど、今は個人指導をして下さる先生がいたら受けてもよかったかもしれないと思う。実際、個人指導こそ受けなかったが、自分一人では到底あの状態から抜け出すことなどできなかったし、個人指導の意味と大切さに対する理解も深まった。そして大切な人の死という体験を、忘れるのではなく、自分の心を深める体験にしていくことも、整体を通してなら可能なのではないかと思っている。

 また、こうしたことを整体の仕事を通して伝え、他者とも共有していけたらいいな・・・と思う。