アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

野口整体のこれからを考えてみた

整体を伝えていくために必要なこと

 最近、いろんな人のいろんな話(あんまり詳しく言えないけれど)を聴く機会があった。それによると、野口整体は、今、岐路に立っているという。

 野口先生の説く行法を行うことが「整体」であって、整体とは何かは野口先生が定義するという時代があった。その後、私の先生のような直弟子の世代を経て、これから整体をどう伝えていくかが課題となっているようだ。

 しかし、文化財のように「遺す」とか「絶やさない」とか、「保存」しようというような発想では伝わらないのが整体の難しいところなのだろう。

実践する人と、伝えていく側の両方が、生きていく上でどのぐらい「必要性」と「大切さ」を感じているのかが問われているのだと思う。

 私の整体の先生は、生い立ちにも恵まれず、体も十分ではなく、感情が凝固する傾向があって「若い頃は気が散りやすいことに苦しんだ」と言っていた。

 心にも体にも問題があって、生き難さを抱えた先生が、整体指導を仕事にしていくためにはそれを乗り越える必要があり、自分に対する技術、行法として整体に取り組んだのだった。

 そういう先生が、最初に野口晴哉先生に評価されたのは「思想面の理解」においてだったと聞いている。人間観、病症観、といった整体のものの観方、価値観、美意識といったことだが、野口先生の説く思想面に関心を持つ人は当時少なかったという。操法、治し方、対処法、愉気や活元運動の誘導の仕方などの「方法」を求める人が多かったのだ。

 しかし、晩年の野口先生は「思想のないものは滅びる」と考えていた。私も月刊全生でそのような内容を読んだことがある(たしか月刊全生「健康に生きる心」)。様々な手技療法、健康法も思想のないものは皆廃れていくのを長年見て来たからだろう。

 先生が初等講習を受け始めて、最初に「背骨は人間の歴史である」と黒板に書かれた時の衝撃、そして講義の中での「人間か病気になるとはこういうことか!」という感動など、私は当時の話を先生から聞いたことがある。年配の人が多かった講習生の中で、まだ本当に若かった先生の新鮮な反応は、野口先生にも伝わっていたようだ。

 今でも、整体のような身体的な世界で「思想」などと言うと、「頭先行」「理屈倒れ」のように思われがちだし、実際に体(自分にも相手にも)に対する対応力がなければどうしようもなく、その方法論を学びたい人の方が多いと思う。

 そういう現実はあっても、私の先生も晩年、思想の理解を指導に来る人にも弟子にも求めるようになった。それは、野口先生が自分に期待した「整体の理念・思想の普及」に寄与したいという思いがあってのことだった。

 しかし先生は、自身の力が及ばず、その信義を果たせないという失望で病となった側面がある。先生は亡くなる五日前まで指導をやりぬいたが、それは亡くなった後、野口先生の面前で恥じることのない自分であろうとしたからだと思う。

 最晩年、先生は、自分が生きる上で「整体」はどういう意味があって、どれほどの必要性、重要性があるかを、弟子に考えさせ、文章を書かせた。それは晩年、先生自身が取り組んできたことそのものだった。

 先生はそこに、整体が命をつなぐ道があると考えていたのだ。そして私も今、本当にそうだと思っている。そして、行法に意味と目的を付与する思想は、野口整体野口整体であるために、必要不可欠なものだと思う。