アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

整体であるということ2 体癖の表れ方

体癖の表れ方

 野口晴哉師は潜在意識教育の目的は「子どもの天心を傷つけない、歪ませないこと」だと言う。子どもの時から自分の自然をすくすくと育てていければいいのだが、大概の人は育っていく過程で歪み、その歪んだ自分を本来の自分だと思い込んでいる。

 ある捻れ型の男性で、人間関係がうまくいかなくなると「負けまい」として自分の正当性を主張する人がいる。一方で「人間関係がうまくいかない」自分を、裡ではそんな自分が嫌だと思っている。彼はものすごく負けず嫌いな8種体癖である。

 多くの人は、自分はそういう人間だと思い、それが体癖だと思うが、それは本来のその人らしさとしての体癖ではない。

 不整体であると、自分の嫌な面が出てくるものだが、それは体癖が災いしてしまうということだ。元気になる、とは元の気になるということで、今の自分は歪んだ状態にあるのだと自覚し、「元の気」になるために体を整える必要がある。

 8種だから人間関係が下手なのではなく、負けず嫌いで過敏に反応してしまう自分をちょっと超えるのだ。

 頭から腰へと重心が下がり、重心が腰(腰椎)の「体癖的中心(この後で詳述)」に収まれば、自ずと体癖的な特性が現われる。腰が決まることで、「直感・決断・行動」のはたらきが現われ、自分で「感じる・決める・行動する」という主体性がはたらく。

 個人指導においては、臨床心理による智と、活元運動、そして正坐(また椅坐)や歩行時における「型」の把握、これら身体行により「主体的自己把持」へと進むことで体癖修正を行っている。

 そして体が整って、活元運動が質的に向上すると、より自然な働きとして体癖が出てくるようになる。

 

整体であるということ 1 体癖修正とは

体癖修正とは

 感情が主体となっている左右型三種の体癖がある人は、女性と男性では印象が違う場合が多い。明るく、おしゃべりで楽しいことが好き、という人が多い女性の三種に比べ、男性の三種は、一見地味だったり、おとなしそうだったり(暗そうな人もいる)する傾向がある。

 それも、子どものときは明るいお調子者だったのに、中学生ぐらいから変わった、ということが多い。

 ある三種体癖のある男性で「中学生ぐらいのとき、調子に乗って感情的になると回りと摩擦が起きて、それが嫌で無口になってしまった。」と言った人がいる。

その人は「調子に乗って、人を傷つけるようなことを言ってしまったり、怒らせるまで冗談を言ってしまう。友だちから反発を受け、はしゃぎ過ぎたと気づくと、今度は「なんて軽率なんだろう」と落ち込んでしまう。

最近も、結婚式でやり過ぎ、お客さんには受けたけれども、新郎を怒らせてしまったという。友達のためを思えば適度なところで止まるのに、受けを狙いすぎて「躁状態」のようになってしまう。」と、自分の困った癖を話してくれた。

 

左右型はことに嫌われるのを嫌がる。それに懲りて自分を閉ざしてしまったのだ。またこの男性には三種に捻れ型が複合しているので、ついやり過ぎてしまう。こうしたことが相まって「しゃべらないようにしよう」と要求と行動を抑えてしまう習性がついたようだ。普段、抑圧しているために、それが外れると過剰になるともいえる。抑圧も、行き過ぎもなく、丁度よく自分を運転していくということが大切だ。

子どものときは、意識が発達していないので、自覚もないし、抑圧もせずに要求の通りに行動する。それが子どもの自然でもある。

しかし意識が発達し、特に自意識過剰な思春期に体癖習性が元で失敗すると、そのまま要求を行動に出さないようになってしまうことがある。

思春期はまだ体の発達途上でエネルギーは余っているがブレーキが利かない。しかし抑圧したままでは身体の発達が滞って、行動する力が失われてしまう。

思春期は腰椎と骨盤部が発達する時期であり、同時に、自分らしさと社会的適応の問題に悩む大切な時だ。

腰椎と骨盤部が発達することが、自分の情動や行動(体癖)の手綱をとれるようになるために必要なことで、体癖修正とは身心ともに「大人になる」ということでもある。

ともかく抑圧したままでは自己肯定ができない。体癖修正を考える上で、思春期の頃を振り返るというのも参考になるだろう。

普段の生活においても、自分らしい感覚が働いていないときは、ちょっとした話を人にする時でさえも落ち着かず、いい感じで話すことができない。

 自分らしいという自然な感覚がある時に、自分を使うことができる。その人らしさ、自分らしさは、身心共に整っている時、身体感覚で把握するものなのだ。

その様々ある自分らしさが体癖、体癖的感受性というもので、その道から外れないようにすることで成長していく。時にやりすぎがあって失敗しても、自然から離れなければ乗り超えていける。

 

意識化のもつ力と宗教性


 意識化の持つ力と宗教性

 以前、私は動物の生態についてのドキュメンタリー番組で、チンパンジーの群れで子殺しをし、その子どもの肉を食べるというシーンを見たことがある。
 群れが一様に興奮状態に陥り、攻撃性が暴発して一頭の子どもを殺し、食べることで興奮が頂点に達すると次第に静まって、もとの群れに戻る。この行動には個体数調整と、エネルギー調整の意味があると考えられている。
 こういう時、おそらくチンパンジーたちは自分たちが何をしているのかを知ることはないし、母親に対しても特別な感情を持つことはないのだろう。集団的な情動が波のように高まり、その暴力的エネルギーが鬱散された後は何事もなかったかのようだった。


チンパンジーに限らず、多くの動物は、暴力的な衝動・情動を意識化したり、情動に駆り立てられた結果の自分の行為を反省することはあまりないようだ。
 戦時下などの非常事態や洗脳などで、集団心理に飲み込まれて破壊や暴力を行う時は、人間もあまり反省しない場合が多い。いじめなどに歯止めが利かないのも、いじめる側に感情の抑圧があるのと同時に、脅迫的な同調圧力があるからだろう。
 ただ、動物行動学者のローレンツは、多くの群れに生きる動物で、牙や鋭い嘴などの攻撃能力を持っている動物は、同種間の暴力に対する歯止めを本能の中に持っているという。犬や狼は、相手にお腹を見せられると、怒りは収まらなくても攻撃が行動にならなくなる。
 いつか見たテレビ番組では、オス同士のゴリラも、威嚇の「型」を見せ合うことで直接対決をできるだけ避けていた。しかしウサギなどの弱い動物は、暴力の制御がなく、相手が死ぬまで攻撃衝動が止まない。ローレンツは「人間はどうなのだろうか?」と問いかけている。
 ともかく、人間以外の生命は、気づきの能力がなくても生命維持にそれほど困らないように見える。

 集団心理を離れた、個としての人間だけが、情動と自身の行動の意識化を行う。それはなぜなのだろう。しかも、反省することで正気に戻ったり、緊張で偏っていた体までが弛んで健康を取り戻す。さらにはそれを繰り返すことで情動のコントロール力を高めたりすることができる。
 この能力は、人間だけが持っているものなのかどうかは分からないが、人間はそれがないと内的な統合性を保てない。情動の支配から自分を取り戻すことと統合性を保つことは、私たちが生命の正常性を保ち続ける上での命綱ともいえるものだ。
 情動的興奮を知覚するだけではなく、その意味を理解し感情という心の体験に変えていくことが、人間には必要不可欠なことらしい。人間の自然の中には、情動を意識化していくことがすでに織り込まれているかのように思える。
 また人間は、自分が経験した様々な出来事を、単に思い出すだけではなく、それを通して過去の自分と現在の自分を対比させたり、あるいは過去から現在まで変わらぬ自己像を確認したり、複数の出来事を結びつけて解釈したり、過去経験から何らかの洞察や教訓を引き出したりする。こうして自分の物語を紡ぎだす。それは生きる上での行動指針ともなる。
 こうした思考過程は自伝的推論と呼ばれる。自伝的推論の意味するところは広いが、その中心にあるのは、過去の出来事と自己を 結びつける内省的な思考だ。
 こうした気づきの能力と、内省的な思考は、個人のストレス耐性の高さに深く関わっていて、人間が健康を保つ上での重要な機能である。
 人間の持つこのような心の働きが、宗教性の原点にあるのではないだろうか。こうした過程が魂への通路ともなることは、シュタイナー、ユングを始めさまざまな人が説いており、東洋(特に仏教的な瞑想)にも通じる普遍性がある。そして、野口整体の潜在意識教育も同様だ。
 ユングは、意識化の能力が「人間」という種が存在する意味だというが、それはまだ私には実感として分からない。確かに、人間さえいなければ、地球はさぞ平和で美しい世界だろうに、何のために人間がいるのかなとは思う。人間は同種で殺し合いをし、他の動物の餌にもならない。
 それにしても、人間て不思議な生き物だと思う。その中でも、こんなこと考えている私という個体は、ふしぎ度高いのかな…。

 夏がもうすぐ終わる。そろそろ、飲み物、食べ物は温かいものにしていこう。お気に入りの水出しコーヒーと冷凍バナナもそろそろ終わり。

 

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ゴリラの心情の能力が高いのは、サルの仲間にしては骨盤部が発達しているからではないだろうか。

 

 

もう一回、シュタイナー『神智学』

修行における「信」の問題 

 先日、シュタイナーの『神智学の門前にて』をプレゼントしてくれた人が、今度は『神智学』(シュタイナー著、高橋巌訳)の文庫を送ってくれた。お礼のメールも後回しに早速読み始めてみると、前回の本より密度が高く、全体の感想をまとめられそうもない…。

 でも、今、思ったことだけを書いておこうと思う。この本の、霊的認識に至る過程(修行)についての章で、シュタイナーは次のように述べている。

 盲目的信仰をもて、というのではなく、霊学的思考世界を、信、不信に係わりなく、ただ受け容れようとする態度だけが、高次の感覚を開くための前提となる、というのである。

 霊学研究者は弟子に次のような要求をする。-「私の言うことを信じなくてもよいが、それについて考え、それを君自身の思考内容にして見給え。そうするだけで、すでに君の内部で、私の思考内容が生きはじめ、君はその真実を自分で認識するようになるだろう。」

  この『神智学』中でも、霊的感性を啓く上では感覚や感情、神秘的沈潜(瞑想のことか)が大切で、思考は役に立たないという人が多いとシュタイナーは指摘している。

西洋人は自分の中を整理し、自分を方向付けていく思考が得意なのかと思ったら、そうではないようだ。そして、前回頂いた『神智学の門前にて』には次のようなくだりがある。

  霊的な発展に努力するものは、なによりも、つぎのような利己主義を追い払わねばならない。「ほかの人が霊的なことがらを語っても、それをわたしが自分で見ることができなかったら、それはわたしにとってなんの助けになるだろう」と、いってはならないのである。

 そのような発言には、信頼が欠けている。修行者は、すでに霊的発展のなんらかの段階に達している人を信頼しなければならない。人間は共同して働いている。一人がほかの人以上のことを達成したなら、それは、自分自身のためにではなく、ほかの人すべてのために達成したのである。そして、ほかの人々はその人のところに集まり、その人の語ることを聞く。そうすることによって、自分の力が高まり、その人の語ることを信頼することによって、聴衆はみずからも知者になっていく。この一歩を歩むまえに、第二歩を歩もうとしてはならない。

  こういう文章を読むと、シュタイナーも人を指導していく上では苦労したんだな…と思う。自分にはまだわからないこと、感じられないこと、見えないことを説かれたら、それをまず信頼し、分からないままお腹にいれておく。そして自分で反芻しながらわかるのを待つ。

 こうしたことは、日本の伝統的な文化の中では当たり前のことであったのに、それができる人は少ない。まず最初の「信」がないのだ。私の整体の先生も、理論的説明を尽くすなど、努力を重ねていたが、この点では絶望していたと言ってもいい。

 これは今思うと、野口晴哉先生も、生前同じ思いだったのかもしれない。

 お盆には亡くなった人の魂が帰ってくると言われる。日本人の他界は西洋よりも近いところにある。日本の神様はキリスト教の神ほど人間に興味がないけれど、亡くなった人が生きている人をじっと見守っている、という他界観である。

 私の先生は、野口先生は亡くなる一年ほど前から、本部の講義ではよく「これからは気の時代に入ります」と言っていたと言い、亡くなる直前(1976年6月22日没)、箱根での中等講習会(5月末)では、「これからは気で教えます」と言った、と話してくれた。

『神智学』を読みながら、野口整体のことなんか考えているから感想が書けないのかもしれないが、気のこと、潜在意識のこと、霊、魂のこと、様々な面で私を揺さぶる本であることは確かだ。

 いい本は、筆者が自身の世界を開いて見せてくれ、本心で語りかけてくる。まるで声が聞こえてくるようだ。私は心を開いて、シュタイナーの言葉を聴こう、という気持ちで読んでいる。

 そんな「いい本」をプレゼントしてくれて、ありがとう。

 

思いがけない贈り物

シュタイナーの神智学(人智学)

  先日、友人から本のプレゼントを頂いた。タイトルは『神智学の門前にて』、シュタイナー教育で有名な、R・シュタイナーの霊学入門という本だ。

それも偶然、他の友人から「同級生のひとりに、ドイツでシュタイナーの人智学を学ん で帰ってきた人がいる」という話を聞いて、帰ってきたら郵便受けにこの本が入っていた!

 これまで、本を下さった人とシュタイナーは結び付かなかったのだが、意外な人が意外な関心を持っているものだ。

 私は昔、子どもの本とヨーロッパのおもちゃの店で働いていたことがあるのだが、そこではシュタイナー教育関連の書籍とおもちゃの取り扱い、また人形作りや音楽のワークショップなどがあり、聞きかじり程度のことには触れる機会があった。

 ただ、これは「整体式子育て」も同様なのだけれど、日本でシュタイナー教育に熱中しているお母さんというのは教条主義的危うさを感じさせる人もいて、私は人智学(神智学)の方まで関心をもつには至らなかった。少々引いていたのだと思う。

 しかしその頃すでにアメリカでは、良い家庭の子どもはシュタイナーかモンテッソーリの幼稚園・小学校に入れるのが一般的になり、特にシュタイナーは多いという話だった。

 その後、整体を始める頃に出会った人(整体をやっている)の中にも、奥さんたっての希望で子どもをシュタイナー学校(神奈川)に通わせている人がいて、「授業内容がぶっとんでいる」という話を聞いたことがある。

 振り返ると、今の日本の教育というのは、世界的に相当遅れているのかもしれない。先日、ある私立小学校で役員を務める人の話を聞いたが、今もなお、親も学校も一生懸命勉強(受験のための)をさせることが教育だと考えているようだった。

 今回、本を読んで「ぶっとんでいる」と言った人の意味する所(たぶん宇宙史など)も分かったが、シュタイナーの人間の発達に対する考え方を知り、その思いを強くした。

 頂いた本の主題は、いわゆるシュタイナー教育ではなく、霊学(神智学)が主題となっている。こういうところから「なぜそうするのか」を理解しないと、シュタイナー教育も方法論的になってしまうだろうな、と思った。

 また、野口整体は「脳と運動系」という基礎研究に基づくものではあるけれど、潜在意識教育などその多くは野口晴哉先生の霊学(玄学)を基礎にしている。それは「気」という東洋的なものが主体となっているが、この本を読んで、西洋の霊学も含まれているのではないかと思った。

 第一次大戦前後の日本には、西洋とほぼ同時代的に、近代知はもちろん、代替療法スピリチュアリズムなどが入ってきていたのだから、野口先生がそれを吸収しなかったという方が不自然だろう。

 最後になるが、この『神智学の門前にて』という本の中で、霊的発展の過程として東洋の修行法、キリスト教の修行法、現代(薔薇十字)の修行法の三つが述べられていることが特に心に残っている。整体のこれからを考えるよい機会になった。

 霊的な目覚めに至る過程などは省略し、導師との関係性という点から簡潔にまとめてみた。

 

1 東洋の修行法―生きている人間が導師であり、自己を滅却し導師にすべてをゆだねるとき、最もよく進化する。

2 キリスト教グノーシスの修行―生きている人間を導師とせず、イエス・キリストとひとつになろうとする。しかし、地上の導師を通してキリストに導かれなければならない(カトリックは導師個人より「教会」という組織・集団に重きを置く)。

3 薔薇十字(神智学)の修行法―導師は助言者となり、修行者は最も独立している。修行者がなにを内的に行うべきかについて教示を与え、霊的修行とともに確かな思考の発展を育成する。科学の基盤に立ち、科学のために信仰に疑いを持っている人に適している。 修行の本質は、現状の小さな自己から、まだ知らぬ大きな自己までを含む真の自己認識にあり、導師は友に近い。

 

 これまで私は、間違いなく「東洋の修行法」的だった。これは、私の潜在意識に不信と不安が根深くあって、感受性の歪みとなっていたことによる。私には先生を(理想化ではなく、素のまま、時に腹を立てながら)信頼することと、裸の自分に対する信頼を養うことはひとつだった。

 そして思い切って言うと、今の野口整体のあり方は、「キリスト教グノーシスの修行」的傾向にあるのではないだろうか(集団帰属心理に重きを置く場合はカトリック的ともいえる。ちなみに私が最も避けたいのはこの道筋だが、これ以上は言わないでおこう…)。

 指導者にもよるが、整体指導で身心共に関与する度合いが深い場合、東洋と薔薇十字的修行の両輪で行くのがいいのではないだろうか。やはり、自分の中に意識できない自分が良い意味でも悪い意味でもあるのだから、謙虚になること、指導者に心を開く(信頼する)ことは感応道交のために必要だと思う。

 しかし、治療的段階から体育(教育)の段階へ移行する際には、なぜそうするのか、何が大切なのかという整体の思想や理念を教える必要があるので、薔薇十字的?修行のあり方は良い面がある。どうも日本では先生の「ご指導」を請うばかりで、困ったときに自分で判断したり考えたりというのが薄れていく傾向があるので、学ぶべきことはあるだろう。

 この本はその他の内容も、今、自分の興味ある分野にピッタリで、お礼のメールを出すのも忘れ、夢中になって読んだ。でも、おそらくプレゼントされなければ読むことがなかっただろう。友人に心から感謝したい。ありがとう!

 

(註)神智学

神智学協会は、1875年「古今東西の宗教・哲学・科学の研究を促進すること」などを目的としアメリカで発足した。東洋思想に大きな影響を受けている。シュタイナーは1902~1912年まで神智学協会に所属していたが、神智学協会がクリシュナムルティを救世主とする宗教運動に変質しようとしたことで離脱し、アントロポゾフィー人智学)協会を設立した。

(註)モンテッソーリ教育

20世紀初頭にマリア・モンテッソーリによって考案された教育法。モンテッソーリは観察により、人間の発達における四つの異なる期間(あるいは段階)を見出した。それぞれ、出生~6歳、6~12歳、12~18歳、18~24歳とする。モンテッソーリは、各段階に異なる特徴、学習モード、活発な発達欲求があると考え、それぞれの段階に特有の教育的アプローチを求めた。神智学会はモンテッソーリ教育を次世代の教育として推奨した。

意識以前の心

意識以前の心

ここどこかしらない でもぼくいる

いまいつかしらない でもぼくいる

ぼくだれかしらない でもぼくいる

 

はななまえしらない でもきれい

さかななまえしらない でもたべる

こころははらっぱ こころはうみ

 

だけどこころはだんだんまちになる

ことばのみち ことばのたてもの

 

そのしたのマグマをみんなわすれる

ことばだらけのこころになって

 

谷川俊太郎

  これは、元保育士のおもちゃ作家、杉山亮著「子どものことを子どもにきく」(岩波書店)の背表紙にある、谷川俊太郎の詩である。

 この本は著者の息子、隆くんが3歳から10歳までの八年間、毎年行ったインタビュー記録をまとめたもので、今、子どものいる人、そして昔、子どもだった人にも勧めたい本だ。

 昔、日本では「三歳までは神の内」などといって、小さな子どもはまだ人間界にちゃんと根付いておらず、生まれる前にいた(とされる)神の領域に近い存在とされていた。

 この本の「1、三歳の隆さん、神を語る」では、隆くんもその片鱗を感じさせる破壊力でインタビューに応じている。

 今何時なのかも、ここが何という場所なのかも、わからない。字も読めない。それでも隆くんはふつうにニコニコしている。

「大人ならパニックだろう」とインタビュアーの父は言い、そういうことは一番大事なことではないらしい、と述べている。

 この中で隆くんは、「夜、寝る前にお父さんがおはなしをして、隣の部屋に行った後、何やってるの?」と質問される。

 最初、「んー、ご本読んでる」など下手なうそをつくのだが、「真っ暗なのにうそだー」と突っ込まれた後、なんと隆くんは「神様に体操を教わっている」と答える。

 しかもふとんの中で、考え事も神様に教わっていて、教わった体操は起きてからやるのだと言う。そして神様は百人いて、体操を相談して考えており、悪魔も百人いて、悪魔はリズムを考えていると言う。神様と悪魔は仲がいいようだ。

 そしてインタビューの最後には、「お話しするより(神様と悪魔による)体操と考え事のほうがよかった」と述べている。

 この本を最初に読んだのはもうずっと昔、まだ整体を始める前で、子どもの本とヨーロッパのおもちゃの店で働いているころだった。その時は、自分も幼稚園の頃、一人でめちゃくちゃ体操をやっていたことを思い出した。

 子どもの時は、そんなふうにして自分の調整をするのが普通なのだろう。寝相も激しいし。

 それにしても隆くんの発言は、活元運動に重なる。いや、整体指導もそうかもしれない。神様が体操を考え、悪魔がリズムを作っている!もしかすると神様は神経系で、悪魔は骨格筋?

 整体を始めてからも、何度かこの本は読んだ。そして冒頭の詩を読んでは「意識以前の心を詩にすると、こうなるのかな…」と思った。整体の先生にも読んでもらったことがある。

 この詩の最後に、「そのしたのマグマをみんなわすれる ことばだらけのこころになって」というところがある。この本の中でも、8歳ともなると、隆くんはかなりお父さんと対話ができるようになるが、3歳のきらめきと破壊力は影をひそめている。そこで親子のインタビューも終わる。 

整体をやるということは、大人が「そのしたのマグマ」を思い出すことなのだと思う。

 

病症が身心を治す

人間における自然ということ

 生物は外界の刺戟に反応を呈することによってその生存を全うしているのであるが、外界の刺戟に対してどの生物も一定の反応を示すとは言えないが、特に人間にあっては様々であって、同じ時計の音がうるさかったりすることは、同一人であっても条件次第でそれが生ずる。

事が異なると、いろいろであるが、更にその人の、その時の状態で又異なる。時計の針の動きでも、小言を言う方は早く感じ、小言をいわれる方は遅く感じる。一日千秋のことも、光陰矢の如きことさえある。

それ故、外界の変動の刺戟が刺激となることは感受性次第であり、その感受性は各人の生理的、心理的条件で異なることを先づ考えねばならない。

野口晴哉『体癖 1』二

 

 このところ、ストレスについて少し復習していた。冒頭に引用した野口先生の文章で言うと、「外界の刺戟」がストレッサーで「反応」がストレス反応(快ストレスと不快ストレスがある)、というのが学問的な言い方である。しかし一般には原因と結果、どちらも「ストレス」と言い、特に心理的ストレスでは、不快情動(感情)反応を「ストレス」と言うことが多い。

 今、学校や企業などでもストレスマネジメントが課題になっていて、取り組みが始まっているようで「感受性は各人の生理的、心理的条件で異なる」といったこともストレス理解の上では認知されてきている。しかし対応策になると、個人の内側の条件にまで踏み込んだものはあまり見かけない。

 それは、キャノンやセリエの生理学的なストレスの考え方が、刺激に対して受け身で、病理学的だからなのかもしれない。一般的なストレスマネジメントの考え方にも、「原因」を明らかにして対処する、対策を講じるという姿勢が強い。また、ストレス反応を「病気」「良くないこと」と見る傾向もある。

 ついでにトラウマ(心理的外傷・PTSD)も「原因」であり、さまざまな反応を「病気」としてなくそうとする。

 本当は、ストレス理論の原点となったセリエとキャノンは、病症をストレス状況に対する「再適応の過程」と見る視点を持っていたのだが、細菌以外の「病因」の発見ということの方が注目を浴びたのだろう。

 整体では病症のことを「変動」ということが多くて、「再適応の過程」の方向か「破壊」の方向かを観察で見きわめた上で、経過を全うさせる。こうして病症をなくそうとするのではなく「再生」を図ろうとするのだ。「病症が体を治す」と野口先生は言った。

 整体の見方からすると、ストレスマネジメントとして「病症を経過する」時間を与える(診断書不要で休ませる)というのも入れてくれないか、と思ってしまう。いろいろ頭で考えて対策を講じるより、「病の時間」の方がずっと有意義であることが多いのだ。

 病症を経過することで鈍っていたところに感覚が戻り、過敏だったところに静けさがもたらされると、それは感受性として、当然、心理的にも変化が訪れる。

もちろんこういう経験は、普段の整体生活あってのことで、なにもしていないのでは難しいが、病症をなくす手段を講じ続けることで、生きる力を殺いでしまうことは薬の過剰摂取などを考えてもお分かりかと思う。

 それに私は、その人の魂にまで損傷が至らないように、体が病気になること、病症が背きあっている心と体を統合する働きをしていることを見てきた。

 ストレスを考える上でも、「病気にならないように」を超える深さを持つことが大切なのではないだろうか。