アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

死の側からみた体の自然と脱力

 最近、個人指導をしている人から終末期にある家族についての相談を受けた。

 私の体癖的バイアス強めな観方ではあるが、ごく大雑把に言って整体指導をする人は出産・育児か死のどちらかに関心が向きやすい傾向があるように思う。

 私は死の方に関心が向いているようだ。出産・育児に全然興味がないわけではなくて、子どもも好きなのだが。

 思えばそれは整体の師匠が亡くなる前からの傾向だったが、今よりも若かったこともあって、自分では「どうなんだろう」と思っていた。

 その頃、私の伯母が終末期に入院することになって、郷里は遠方だったため私が面会に行ったことがある。その時の伯母は見当識がなくなっており、帰ると言って大声を出すようになってしまっていた。

 部屋は広かったが統合失調症の(元)弁護士の男性と二人だけで、その人が大きな声でずっと意見陳述をしたり社会情勢について論じたりしており、「静かにしていられない人の部屋」に伯母が入れられていることが悲しかった。そんな人ではなかったのに…。

 その場はかなり常軌を逸した状態にあり、私は見るに堪えず、伯母を落ち着かせたくて愉気をすることにした。手を当てていると「死は恩寵である」という言葉が浮かび上がってきて、心の中から離れなかった。

 その時伯母は私が誰かを認識していなかったと思うが、鳩尾に手を当てていると伯母の声が次第に静かになっていった。しかししばらく愉気をしても意識水準は低下したままだった。

 私はふいに「操法をしよう」と思った。野口整体では普通、死に向かう人に操法はしない。やはり操法は生に向かう方向へ身心を切り替えるためのものだからだ。

 でも、その時私はやることにしたのだった。なぜかその時、すぐ傍に祖父(伯母の父)がいるような気がしていた。

 下肢を観察して見ると、かなり硬張りが強かった。私は片側の足首を掴んで、がくんと引っ張った。

 伯母の全身から力が抜け、しーんと静かになった。ふと気がつくと、大声で論述していた同室の弁護士まで静かになっていた。不思議な静けさが病室に充ちていた。

 ふと伯母の顔を見ると、びっくりしたような顔をしていたが、目が正気に戻っていた。私はこのまま眠ってほしいと思い、「わかる?もう帰るから休んでね」と言った。伯母は頷いてくれた。

 一応、静かになった同室の弁護士に「お騒がせしました。これで失礼します」と言うと、「いいんですよ。また来てあげてくださいね」と言ってくれた。精神疾患の人は気に敏感なのだな、と思った。

 その様子を見て待ってくれていた看護師さんが入って来て、お世話が始まったので私は外に出ると、他の看護師さんが伯母の状態について説明してくれた。

 しかしその後、母が面会に行った時はまた声を出すようになっていたと言う。その日だけのことだったようだ。私が面会した後、一週間ほどで伯母は亡くなった。

 しかし私は、健康な死について考えるようになり、終末期において「脱力すること」がいかに大切かを理解したのだった。

 整体では脱力することで自然治癒力が発動すると考え、健康に生きる上での重要性を教えている。しかしそれは、死に際しても重要なことなのだ。

 脱力によって生きる方向に向うのか、死の方向に向うのか。そのどちらもであっても自然であること、それを肝に銘じて置こうと思った。

 今は終末期に入っても、点滴、気管挿管などいろんな選択肢があって、家族のことだとやはり決断するのが難しいことがあるし、もしかしたらとも思うものだ。

 そもそも治療と延命の境界もあいまいで、延命措置を断ることで自分が死なせたような気になってしまう人もいる。しかも親兄弟、配偶者間であっても死生観は相当に違うことが多い。難しいところである。

 ただ私は、死に向かいつつある人をどうこうというよりも、看取る人にとって千載一遇の体験と学びの時であることに焦点をあてていく。整体の本質的なことも、そういう時にこそ実感を持って理解できることが多い。私はそれが一番大切なことだと思っている。