アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

Studyの宗教とLeanのカルト

 今、旧統一教会と政治の問題がニュースになっているが、その中でオウム真理教事件で有名な江川紹子が、カルトと宗教の見分け方について、ダライ・ラマの「leanかstudyか」で見分けるという話を紹介した記事があった。

 ダライ・ラマの言葉をもう少し詳しく言うと、lean(習得する)やbelieve(信じる)ばかりのグループは気を付けた方がいい、本来はstudy(研究する)とinvestigate(調査する)が中心であり、自分の頭で考えることが大切だとのこと。

 野口晴哉は「神様は人間が謙虚であるために必要なもの」と言ったが、それとstudyは矛盾しない。learnのほうが上位下達的、権威主義的、教条主義的になりやすいと思う。

 ダライ・ラマのこの区別の仕方はさすがと思ったが、そうすると受験勉強などもカルト的なのだろうか…?それはともかく現代人、特に若い人は「どうすればいいか」や「正解(答え)」をすぐに知りたがるし、自分についてのstudyもあまり得意ではなく、積み重ねたり待ったりすることができない傾向がある。

その点、ダライ・ラマの言う「気を付けた方がいいグループ」は現代人のニーズに適ったやり方をしているという面がある。それがいいとは思ってはいないけれど…。

 また、新興宗教の多くが家庭が新しい信者を育てる場にされていることも問題を深刻にさせている。これは世襲を良いものとする伝統的な価値観がさらに拍車をかけているように見える。

 ユングは宗教の持つ目的として、死の受容とともに、家族(血縁)という閉ざされた関係から人間を解放することを挙げている。キリスト教などでは教会に通う人はみな家族だと言うが、これは家族の枠を広げることで血縁の枠を外そうとしているように思われる。仏教もはっきり肉親を心の拠り所にすることを否定している。

 本来、個の自覚と独立、そしてより広い世界へ心を開かせるという意味があるのだ。ただ子どもの間は家庭にまもられ、養育者が心の拠り所となる必要がある。

 家庭を信者獲得の場にしているというのではユングの言う宗教とは言えないし、判断力のない子どもにlearnばかりを押しつけることになる。そして子どもから両親との心のつながりを奪い、心が開けない人を増やしていくだろう。

 整体指導をしていても、親が何らかの宗教を信仰していたという人に会うことがあり、必ずしもその人が信者ではなくても影響を受けている場合がある。しかもその自覚がないことも多い。親の宗教を嫌っている人でも刷り込まれていることがあるのだ。

 野口整体の指導でその人の信仰を捨てさせたりすることはまずありえないのだが、健康に生きる上で障りになっている場合は話が宗教に及ぶこともある。

 それは人間関係であったり、子どもを育てる上でのことであったり、さまざまなのだが、整体という視点から見た時の問題としては、その教えが感情や要求を抑圧することを教え、しかもそれを怠ると「悪いことが起きる」などと脅している場合である。これは神道系、仏教系、キリスト教系いずれの場合も共通している。

 たとえば以前、祖父母・両親が新興宗教団体の幹部で、小さいころ家に人が集まって教義を説く会などが開かれていたという男性がいた。

 その団体では怒り、嫉妬などの悪感情を抱くと人生が悪い方向に転ぶ、病気になるなどと説いており、両親は子どもに宗教を強制しなかったが、その人は子どもの時にそういう話をしている場にいたことでそれが刷り込まれてしまったことに大人になってから気づいた。

 その人はふっとそういう感情を覚えそうになるとすぐにそれに蓋をしてなかったことにしてしまう心の癖があり、それが感情を内攻させてストレス性の身体症状やうつ傾向になっていたのだが、大本にその教義があったことを思い出したのだ。

 家に集まる人々の表情は暗く不幸そうな感じで、「悪感情を抱いていたからこうなった」という因果論?の説得力が一層強まったという。

 ユングは情動のコントロールを東洋的な宗教の身体行の目的だと指摘して宗教とまではいかなくても、ピリチュアル的な教えの中にも怒り、恐怖、自己否定などについての教えはあるが、その解決策はあまり現実的ではない(と私には思える)ことが多い。

 ユングは情動のコントロールを東洋的な宗教の身体行の目的だと考え、現代人にとっての重要性を指摘している。また情動に対する抵抗力を持つことを精神疾患の治療ともしていた。

 実際、新型コロナウイルスパンデミックの初期、各方面の専門家に話を聞く特番でNHKのアナウンサーが、災害時の社会動向を研究する学者に「私たちは不安や恐怖にどう対処すればいいですか」と真面目に聞いているのを見て驚いたことがあった。自分の感情に対する抵抗力というのは本当になくなってきていて、もはや自分の心の問題、自分で責任を持つことだとも思われていないのだと思う。

 感情にどう処するか、というのは本当に大きな問題で一言で片づけることはできないが、感情というのはまず身体から起こるもの(情動)だということ、それを後から脳が知覚するのだということを身体感覚的に自覚することが必要だ。つまり考え方や理性などでどうこうできる問題ではないということだ。そして、自分の感じ方、受け取り方の癖とも向き合う必要がある。

 ともかく、宗教を求める人は不幸な境遇だからそうなるというのはかなりの偏見で、喪失感や行き詰まりが問いを発するきっかけであっても、実際には生きる意味や目的を問う真面目な人が多いのだと思う。

 本当は生きづらさや現世的利益などに対する分かりやすい解決だけを求めているわけではないから真剣になってしまうのだし、出会った相手が悪くてつけこまれたというのが相当にあるだろう。また一時的には救いになる場合もあるかもしれない。

 それにしても、母の愛情を求める心の飢えが、元首相を狙撃した主要な動機と見えることが、悲しくも恐ろしい。