アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

手を動かすと思い出すこと

 ずっと以前、雑誌でジェーン・バーキンのインタビューを読んだことがある。その中で彼女は40代になってからある人にメンズ服を勧められ、それから普段着のシャツは全部メンズにしている…と言っていた。私も昔からメンズのシャツというのが大好きで、それがとても印象に残っていたのだが、私自身は小柄なので着こなしが難しく、あまり着ることはなかった。

 しかし今、私は仕事着のシャツとしてメンズのバンドカラーの白シャツを使っている。袖と丈を詰めてリメイクしたものだ。それがとても動きやすく着やすいので、無○良品でギンガムチェックのリネンシャツをセールで見つけてきて、普段着用に袖と丈を直すことにした。

 私のお直しは手縫いである。ちくちく手を動かしていると、生前、整体の師匠の仕事着や普段着のお直しをよくやったことを思い出す。男ものの服というのはやはり仕事着が原型にあるせいか、用の美を感じるところが魅力である。

 そして先日、弟子入りしたばかりの頃、一緒に整体を学んでいた女性写真家のことが、ある人のブログに書かれていたことを思い出した。京都のギャラリーで彼女の写真展があったようだ。数日前には彼女を見出した川久保玲のCOMME des GARÇONS HOMME PLUSが二年半ぶりにパリコレに復帰したという報道もあった。

 以前、このブログにも書いたことがあるが、彼女には自分が見ているのと同じものを見てほしい、という強い希求があって、それが分からなかった弟子(アシスタント)を辞めさせたことがあるほどだった。しかしそれが表現しきれないという苦しみも同時にあったのだろう。

 そのブログでは彼女の「自分の見たままを写真にする」ということばについて考察されていた。こういう文章を読むと「今でも、こんな風にあなたの言葉や写真を受け止めている人がいるのに、どうして死んでしまったの?」と、彼女に意地悪のひとつも言いたくなる。そうしたら聡明な彼女はきっと苦笑いするだろう。

 一緒に整体を学んでいた頃、私は最初の実技の時間で彼女と組むことになった。私は彼女に関心があり、好感も持っていたが、坐姿で背中に手を当てた時、ふいに「駄目だ」と手が離れてしまった。その日、私は練習ができなくなってしまったのだった。

 大人の彼女は「いいのよ」と言ってくれたが、愉気ができない自分に落ち込んでいたら、先生が私を呼んだ。叱られるのかと思ったが、先生は私を叱ることなく、今のお前にできなくても仕方がないのだと言った。そして、相手に触れる前に(愉気できないことに)気づかなければならないと注意された。

 意図しないことであっても、できないということは、相手を傷つけることになるし、今の自分の器というものに自覚がないことが一番の問題だ、ということだ。彼女は私生活でも大切な人との死や別れで深い悲しみを経験し、心理的な危機を経過している時期だった。

 それ以後、私は彼女を少しでも知りたい、心を感じたいと思うようになり、関心を持ち続けていた。数年後彼女は自死を選んだが、それ以後もなぜかその気持ちは変わらない。そして無性に彼女と話がしたくなる。

 ともあれ、今でも作品に関心を持ち続けてくれる人がいるということは、彼女にとって何よりうれしいことに違いない。写真展を主催したギャラリーにも陰ながら、しかし心より感謝している。