アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

鈴木大拙『禅とは何か』

 私が最初に読んだ鈴木大拙の本は『日本的霊性』(岩波書店)で、当時はまだ学生だった。そして弟子入りしてから先生に『禅とは何か』(春秋社)を読むように言われ、その後先生と何度も読むことになった。

 当時、この文章には本当に目を覚まされるようなショックを受けた。今も鈴木大拙と言えばすぐにこれ!と思う内容で、昭和2~3年の講演録だということも驚き。遅くなったが、師匠を偲んで紹介したい。(鈴木大拙の文章は改行が少ないのでブログ用に改行。野口晴哉は呼吸が深く長い人は改行が少ないと言ったが、本当にそうなのだ。今、読みやすいとされる文体とは大違い。)

第四講 証三菩提を目的とする禅

 禅というものは具体性と創造性を帯びたものである。…個人の体験ということの本当の意味に徹する人には、その人の生き方には人のことを真似したものがない。天地間はその時その時に創られてゆくといってもよろしい。その人のやることはことごとく創造性を帯びているといわなければならぬ。

 それで人がやっているから、自分もそうするということでなくして、その人のいわゆる、やることはその心の中から発露したものである。これは子供を教育するという上においても、ことに宗教というものを人に伝えるという点においても、やはりこの創造性ということを軽視してはならないのである。

 科学というものは、まことに結構なものである。われわれの生活というものが便利になり、物が安直になり、昔は大名か大金持ちでなければ、手に入れることもできなかったようなものが、今はわれわれが誰も平等に口に味わい、身に着けていることができるのである。

 その点はまことに結構であるが、それと同時に人間がことごとく人形になってしまった、機械になってしまった。これは私は近代文明の弊害であると思う。

 機械を使うというと、人間が機械になるのではないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。使うものに使われるというのが、人間社会の原則であるらしい。人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなって、その幣に堪えぬということになっている。

 この幣に陥らざらしめんため、宗教がある、宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出してゆくことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明から逃れることができると私は思う。

 それでますます宗教というようなことを、どの方面からでも説明のできるような具体性と創造性を兼備したこの禅のごときものを、ますます今の世界に弘めなければならぬ、ただインド的の禅定というもののほかに、また中国的活動の禅、創造性の禅を鼓吹したいと思うのである。

 またそれと同時に、物を離れて物を見る、この機械となっている世界を離れて、別に存在する世界を見る、すなわち物の中にいて物に囚われぬ習慣をつけておかなければならぬと思う。

 朝から晩まであわただしい、機械化した生活から一歩退いてその圏外に立って、この世界を見るということができねばならぬ、すなわち坐禅をしてみるというだけの余裕ができなければならぬと思う。そういう機会を忙しい忙しいといいながらも、やはり何とかして作っておくほうがよかろうと思う。