アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

死生観の確立

 先日、初めてクラムチャウダーを作ってみた。クラムチャウダーにはマンハッタンスタイル(トマトベース)とニューイングランドスタイル(クリームベース)があるが、ニューイングランドにした。アメリカ料理はおいしくないとよく言われるが、クラムチャウダーはおいしいと思う。

 そんなことをしていたら母から電話があり、私の90歳近い伯母が医師から「あと2週間程で亡くなるのでは」と言われていると言った。もうほとんど食べられないようで、私が母に「食べさせない方が本人は楽だよ」と言ったところ、「お父さんもそう言った」と返ってきたのが意外だった。

 父ももうすぐ手術を予定しているので、老いや死、病について思うところがあるのかもしれない。また、穏やかな死を迎える上での医療的な知識も普及してきて、死に抗うようなことを間際まで続けないという在り方がかなり受け入れられてきたということもあるだろう。

 高齢化社会から、今は大量死の時代とも言われているが、2020年に発表された厚生労働省の調査では、死因の中で「老衰」が第三位に入っている(二年連続)。

 かつては高齢者であっても死亡診断書の死因に「老衰」と書く医師は少なく、何らかの「病因」を書くのが通例だったそうで、「老衰」が増えた背景には、高齢者が増えたというより医師の意識の変化が大きいとも言われている。

 宗教と医療が分けて考えられているキリスト教圏では、死は神(宗教)の領域であり、高齢者が死を迎えることについての受け取り方も日本とは違う。

 しかし、日本では西洋医学の医療の中で、死は敗北であるかのように受け取られてきた。そうした中で、死というものの存在が肯定されるようになったのは良い傾向だと思う。

 野口晴哉は、「病症に対してどう処するか」という腹を括る重要性を折に触れて語り、今も野口整体を実践する人はそのことを自身に問い続けているものである。

 それは薬物の悪影響、痛みなどの症状を抑えることで体に残る影響、経過することで発達する体のはたらきなどを考えてのことではあるが、私は言外の目的として「死に対してどう処するか」の訓練をしているという面もあると思っている。

 病症を経過するようにしていると、だんだん「人間は死ぬ時までは生きているものなんだな」と漠然と思うようになってくるのだが、こういう積み重ねには、生きる上でも、死を迎える上でも、宗教的と言える程の意味があるのだ。

 大病や大事故などを経験した人の中にもこういう実感を持つようになる人は結構いるが、普段の小さな病症でも、経過を全うすることで実感を深めていくことができる。

 私の身体は今、親知らずがさらに表出してきており、年齢不詳の活動をしている面もあるが、老化や死の要素をはらむ面もある。また大量の細胞が死ぬ一方で、新しい細胞に置き換わっていく。

 かつて私はそれが生きているという状態だと思い、死を迎える時はその流れが止まるのだと思っていた。しかし今は、流れは止まるのではなく続いていて、死を経過することでこれまでとは違う、何か新しい状態になるのだと思うようになった。

 死生観には様々あるが、医療技術の発展とともに選択肢も増え、否が応でも死の迎え方を選ばなければならない時代が来ている。

 思えばそれは私の師が最期を迎えた時、痛感したことだった。生前、師匠は「整体指導者になるなら死生観を確立しろ」と言っていたが、その意味が今はよく分かる。そして、整体を実践する意味として人にも伝えていきたいと思っている。