アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

言葉を発する時

 先日、活元会の後に大安売りのかぶを買った。葉と茎を煮びたしにして、かぶのクリームシチューを作り、残ったかぶは一日干して、セミドライにしてから冷凍に。

 これにミートソーススパゲッティというけっこうなボリュームの夕飯を食べた後、ふとあるブログのことを思った。記事を書いているのは、ある身体技法の指導的な立場に立つため、真面目に取り組んでいる若い男性(多分)である。

 この人は所属する会のあり方や今後の身の処し方などで思い悩んでいて、おそらく私のような通りがかりの他人は読者として想定されていないのだが、つい読んでしまうのだ。少し前には質問までしてしまった。

 最初はこの人の野口整体について触れた記事に「困っちゃうな」と思うようなことが書いてあったのがきっかけだったのだが、もはや私の興味はそこではなく、この人の悶々力にある。

 こういう日記のようなブログというのは不思議な面白さがあって、全然知らない、会ったこともない人が、今自分が感じていることと同じようなことを書いていたり、興味を持っていたりというのも面白いし、知らない世界を垣間見たり、新しいことに出会ったりもする。

 個人の生活や心の中をのぞくのが大好物の私には、本当に興味深いものである。そして、自分のことを重ねてみたり、昔のことを思い出したりしている。

 少し前にはフリースクールを始めようとしている人の記事を読んで、整体の勉強を始めた頃に関わっていた、不登校の子どもの学習援助ボランティアのことを思い出した。

 整体とは全く別のつながりで関わるようになったのだが、偶然、主宰者が整体の師匠の指導を受けていたことがある人で、気のつながりの不思議さに驚いたものである。

 当時、私は主宰者に「なぜ学校に行けなくなるのか」を聞いてみたことがあるが、いじめなど明確なきっかけを答える子は少なくて、多くの場合、「何となく」と言うことが多いのだと言った。実際のところどうなのかは別だが、子どもの実感としては嘘をついているわけではないだろう。

 その頃、私はある中学生(時々不登校)の女の子と出会った。その子は自分の心を表現する言葉を持たず、「お腹が痛い」とか、身体的な表現しかできない子だった。

 私と会う少し前に、この子の母が家を出て父と二人暮らしになり、一人でいることが多くなった。彼女はかなり年上の男性と会ったりするようになって、年齢にそぐわない、色っぽいおしゃれ?をするようになり、困った父親が相談に来たのだった。(それ以上のことはなく、万引きなどもしない)

 当時の私、そして多くの大人は「この子は寂しいからそういうことをするのだろう」と思う。しかし、この子の実感としては「寂しいこと」と自分の行動はつながっていない。「寂しい」という気持ちも「仕方がない」と蓋をしていたかもしれないし、今思うといなくなったママの真似をしていたのかもしれない。そもそも自分がなぜそうするのか、分からないのだ。

 でも、先日読んだブログでは、あるお題について子どもと哲学的対話をする活動(フリースクール)があると言う。私はできるのかな…?と思ったが、できるようだ。その中で、辛い時は「話さなくてもいい」所に目が行った。

 もしかすると、その場にいる人が、自分の発話を待っている、自分に注意を集めているということに、かくれた意味があるのかもしれない。

 そして、空気や同調ではない言葉を発してもいいのだという体験。そして、問いかけられて考えたり、言葉を発したりすることで、自分の存在感、自分の輪郭がはっきりしてくる。

 また、お題があることで、自分のことを直接話さなくても良いのもいいかもしれないし、自分の考えではない、どこかで誰かが言った言葉を発してしまった時の違和感を感じるのだって、必要だ。

 こういう取り組みがあるということは知らなかったけれど、ブログを書いたりすることも、それと似ているように思った。書くことで自分の言葉を獲得し、発話する練習をしているようだ。

 私が好きで読んでいるのはみな、一人になって書いているブログである。家族がいる人も、あるコミュニティに参加している人であっても、個人に立ち戻って書いている、言葉を発している。

 言葉にすることで、自分の心を改めて理解できるようになることもあるし、外界の受け取り方が変わることもある。言葉を発し、それを受け取る人がいるというのは、文字や音声だけではない何かが媒介している。やはりすごいことである。あんまりちゃんとした言葉になっていないけれど。

言葉

人間は言葉で考え、又、考えを伝える。

言葉を伝えるのではなく、心を伝える。

心を伝えようとする心が、言葉を生んだ。

しかし心が通らねば、言葉は通らない。

野口晴哉(『偶感集』)