アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

死と病症の向こうに

 先日、初めて明治神宮にお参りする機会があった。大きな森を歩いていると、どんぐりが沢山落ちていて、芳しい、懐かしい匂いがした。

 その日は宮中行事新嘗祭の前日で、境内にはたくさんの野菜や米などの農作物が奉納されており、巨大なコンニャクイモなど日本全国から集まるお供物を見ることができた。

 新嘗祭に限らず、農耕儀礼は、消費者には農作物は単なる物ではないという気持ちにさせるし、生産者には誇りを持たせるものだと思う。

 明治神宮の御苑と広い森を歩いて、神宮内のレストランでカレーを食べたら、想定外のおいしさだった。

そして、知人の板前さんに、鰻の白焼きと、ちりめんじゃこをふんわりと炊いたもの、のらぼう菜の茎のきんぴらを頂いた。さっそく食のご利益があったようだ。

 この板前さんは、店の生ごみを肥料にして育てた野菜を使い、良い材料でたんねんな仕事をする人なので、作るものはおいしくて気が充ちている。

 この人は夏ごろ、自分が尊敬している70代前半の神道家が病に倒れたことで、何とかできないかと私に連絡してきたことがあった。

 しかし話を聞くともう死が近い状態で、私は「できることはないし、生かす手立てを考えたりしないほうがいい」と言ったのだった。翌月、その人は亡くなった。

 その人の奥さんは物質主義的な?人で、その人が関心を持つことに否定的だったこともあってか、神道家が倒れる前に頼んできた仕事を断ってしまったことが心残りのようだった。折悪く休業期間中で、その仕事を受ければ補償金を貰うことができなかったのだ。

 話を聞いた後、私は「誰かを亡くすと、人に会うって大事だと思うでしょう?」と言った。なぜか口からそういう言葉が出て来たのだ。

 実は板前さんは最近、もう一人昔から世話になっていた人を亡くしたとのことで、「ああ…、葬式の時、本当にそう思った」と言った。

 誰かが死ななければ、そういうことを実感することはあまりないが、ただ長いこと会っていないというのとは全く違う実感があるものだ。

 また板前さんは、参加している勉強会の先生も三か月前に脳梗塞で倒れて意識不明になり、最近復活したのだそうで、その日の夜、お祝いをするのだと言っていた。

 この板前さんは、現実や人に影響を及ぼすパワーとか強さを持つ人に惹かれる人なので、すごい!と信じていた人が亡くなったり病気になったりするのを見て、自分が頼みとしていたものが揺らいだところもあったのだと思う。

 シュタイナーは「年老いて亡くなった人の心魂は、その心魂のほうに私たちを引きつけます。若くして亡くなった人は、私たちの方に引き寄せられます」と言った。(『精神科学から見た死後の生』)

 それは、年老いて亡くなった人は遺された人間に死や霊性についての理解を深めさせ、若くして亡くなった人は再生や生きることについての理解を深めさせるということだろうか。

「不知、生まれ死ぬる人、いづかたより来りていづかたへか去る」という方丈記の有名な言葉があるが、この「いづかた(どこか)」は同じ場所を意味する。

 そこから私たちを見ている眼があるから、この世で誰かと出会い、心を通わせる意味や大切さが分かって来るということがある。本当はいつも、一期一会なのだ。

 今回、良かったな…と思ったのは、この人の死というものに対する忌避観や恐れが和らいだように思ったことである。

 この人は魚をさばく仕事は午前中に全部終わらせてしまうという血や死穢に対する不浄感が強い人であり、痛みや病症に対する不安、死の忌避感も強かった。それがちょっと穏やかに、受容的になったような気がする。

 この板前さんは60代男性である。心の発達は、生きている間、ずっと続いていくのだな…と思った。

 新型コロナウィルス渦の中で、人間が学ぶべきことのひとつに、死や病症に対する恐怖、忌避感の問題があるのではないだろうか。
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