アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

野口整体の社会性とCOVID-19

 先日、youtube斉藤和義の「2020 Diary」という曲のMVを見た。曲そのものは知らなかったわけではなく、2020年の年末、真島昌利仲井戸麗市斉藤和義の三人でやったラジオ番組で聴いたことがあり、確かあの時、このON AIRが初出しだと言っていた。

 年末にこの曲を聞いた時、こんなに政治家に対する疑問ややり切れなさ、恐怖で保身に走るあまり、寛容さや想像力を失っていく人たちに対する気持ちを率直に表現する曲は初めてだと思った。

 ただその番組で、仲井戸麗市にちょっとガッカリしてしまった影響もあってか、「2020 Diary」もその時聴いただけになっていたのだった。

 今回改めて聞きながら、少し前にこのブログにもらったコメントを思い返していた。

upはしていないけれど、それは、

コロナを経過した人たちの体の変化について、整体的に観察した知見が見当たらないのはなぜだろう?

…もっと発信があってもいいように思う。

というもので、大意としては、野口先生存命中だったら、野口先生だったら、今の人たちとは違う対峙の仕方だっただろう…ということだったと思う。そして、

身をささげたいのは人なのか事なのか

さらなる使命なのか

自らが真に望むものを今一度、見据えてみた方がいい

というキビシイ一言もあった。

 確かに。それは正論だと思う。でも私はこの人の問いかけに対して、ちょっとピント外れの、言い訳じみたさえないことしか言えなかった。そして本当は何だか腹立たしくもあった。耳の痛い事を言うこの人にも、何もできない自分自身にも。

 前回、小学生の頃つくったアクアリウムについて書いたが、仮に野口整体の世界が一つのアクアリウムのように自己完結していて、COVID-19からも守られているとする(そんなことはないけれど、現状、指導者が経過した人を見ることは少ないだろう)。でも、それでいいのだろうか。

 私のアクアリウムも、小さいけれど自己完結していて、不適応状態だった私にとってはパーフェクト・ワールドだった。

 あれを一人で見つめ続けているのが悪いわけではないけれど、あの時担任の先生が気づいて、エアーがつけられた不完全な状態ではあるけれど、より大きな水槽にし、多くの人と共有できるようにしてくれたことで、私は友だちに心を開いていくようにもなった。こういう社会性を、野口整体は持たなくていいのだろうか。発言することはできないのだろうか。

 医師ではない私たちが発言できることは限られているし、まして操法などのCOVID-19やワクチン副反応に対する効果について語ることは難しい。個々の身心の状態によって反応が異なることが、この感染症の特徴でもある。

 でも、問題提起や注意喚起などはできるだけやっていきたいし、ことに私が関心を持っているのは解熱鎮痛剤の服用と、COVID-19の経過との関連である。後遺症の多くが神経系的な症状であり、気になる所だ。

 整体的な観方では、呼吸器と神経系は一つの連環として観るので不思議ではないのだが、常用している薬も含めて、人間と薬との関係がコロナの問題を大きくしているように思えてならない。また今、潜在的抑うつ状態にある人が多いことも関連しているだろう。

 こうしたことを今、断言することはできないが、「正常な経過」というものを見きわめるためにも、少しずつ知見を集め、勉強していこうと思っている。

 野口先生がいたら、師匠がいたら、質問できるのにとこれまで何度も思った。しかし、今の人間が自分で考え、知見を集めていかなければならない。

 何はともあれ、このコメントをくれた人は、実は私の友人である。ちょっと「何を!」と思っちゃうようなことを直球でぶつけてくるところが、そして否が応でも考えさせられるところが、男ともだちの良いところなのかもしれないな…と、ふと思った。