アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

宮本武蔵『五輪書』の素読

 先日、指導をしている人から、ふいに宮本武蔵の『五輪書』を勧められた。

 私は、この書の中の「千日の稽古を鍛といい、万日の稽古を錬という」という言葉を知っているだけで読んだことがなく、いい機会だと思って挑戦してみることにした。それも素読で。

 素読というのは、子どもに意味や内容を教えないで、まず原文を音読させるという、江戸時代まで行われていた教育法だ。私も子ども同様、宮本武蔵の説く内容が全て理解できるとは思えなかったので、2、3日かけて素読をすることにした。

 しかし読んで見ると、うーむ、なるほどと思うことがたくさんあり、意外と内容が入って来る。私は武道の心得がないので分からない所もあるのだが、学ぶべきことは多く、時々立ち止まって思いをはせながら読み進めた。

 その途中、カルボナーラを作ったところ、いつも出来が今一つなのに、思いのほか上手くできてしまった。これも『五輪書』の影響だろうか?

 冗談はさておき、一通り素読が終わった今は、ネットで「五輪書」についての論文(pdf)を探して読んでいるのだが、引用されている「五輪書」の文章を、「ああ、あったな」と思い出せることに自分で驚いてしまった。素読の効用というのはすごいものである。

 もともと私の師匠は音読派で、本の原稿など、文章を書く時はいつも私にそれを音読させ、学問的な論文も、野口晴哉の講義録も、私に音読させて読んでいた。

 そして私は、こういう作業を繰り返す経験を通じて、まずは無心に読んで、分からないことを分からないままにお腹に納め、分かる時が来るまで待つことを学んだ。

 分かる時が来れば、読んだ内容、先生の呟いたことに至るまで思い出すことができるものなのだ。そういう下地はあったにせよ、今回の「五輪書」は一回の素読でこんなに入るものか、と感心したのだった。

 以前、イリイチか誰かの本で、中世までは音読(声が出せない時は口パク)が普通で、目で字を追って読む黙読は近代になってからの習慣だという内容を読んだことがある。

 日本で言えば明治以降ということになるが、それ以前に書かれた古文を読む時は、音読する方が良いのかもしれない。

 そういえば、私の高校時代、「百人一首」を丸暗記させた国語の先生がいた。先生は「百人一首を丸暗記することで古文の基礎が身につく」と言い、昔はこういうやり方が普通だったが、こういうことをしなくなったと嘆いていた。

 私は古文が好きだったこともあるが、たしかに丸暗記した後は、文法を覚えるだけのやり方より内容を掴むことができるようになったと思う。これはきっと、語学を学ぶのと同様なのだろう。

 私は若い時、中国語が全く分からない状態で中国に行き、中国語の勉強を始めたことがあるのだが、その時に、ある時期までは周りでしゃべっている言葉が「音」にしか聞こえなかったのに、ある時から「言葉」に変わるという経験をしたことがある。

 感覚を通して得た情報が一定量、潜在意識の中に溜まると、ぱっと理解できるようになる。当時、子どもが言葉を覚える過程も、きっとこうなんだろうな…と思ったのを覚えている。

 人間は、音を皮膚からも振動として聞いているとも言われ、特に新生児は、言葉や音をシャワーのように「浴びる」ことが必要だと言われている。

 野口先生がロイ先生に操法を教える時も、最初「見ていなさい」と言って、ただ傍で指導を見せるというやり方だったという。昔の教育というのは、先に方法論と知識を頭に入れるのではなく、見る、聞く(音読は発声と同時に聞いている)という五感を通して体に入れ、本人の経験と統合されていくのを待つやり方だったのだ。

 現代の人、特に大人になった人には向き不向きがある学習法かと思うが、チャレンジしてみたい古典がある人には「素読」をお勧めしたい。

追記

5月27日は、なんと百人一首の日だそうな。高校時代のM先生、ありがとう。

百人一首は、無邪気に読めない?大人的意味や匂わせが満ちている。後で分かる、というのは面白い。

あひみての のちのこころにくらぶれば

むかしはものを おもはざりけり