アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

健康指導と、死ぬことと

 最近、腹の立つ出来事があった。ある知人が、S氏という多くの著書がある人の話をしはじめた時のことだ。S氏は整体以外にも武道などいくつかのことを実践し、指導もしている人で、実はある時期、私の師匠と接点があった人である。Sさんは彼が関心を持っていることにも詳しく、すごい力のある人だと思っているようだった。

 知人は私の師匠の死因ががんであったことは知っていて、「Sさんはがんを克服したが、そういうことをどう思うか」と聞いてきた。

 私はこの時点でカチン!という音が頭の中で聞こえたが、まあ、「会ったことはあるけど。特には…。」と言った。

 そして、がんというのは、科学的な治療をしない状態では、良くも悪くも、大きく急激に変化する病態だという話をした。

 それから、「大病を何度もやっているのに死なない人もいれば、ふとした風邪で亡くなる人もいる。私は人っていうのは、がんになったから死ぬのではなくて、死ぬ時が来たから死ぬのだと思う」と言った。

 振り返ると、やっぱり少々不貞腐れたことを言ってしまった。もちろんそこには私が弟子だからという感情もあるが、Sさんがどういう人かとは関係なく、がんを克服したから自分の師匠よりすごいとはどうしても思えなかった。知人とはそこで話は終わった。

 後になって、野口晴哉が「指導者は死に方を考えなければいけない」と何かの資料で言っていたことを、ぼんやり思い出した。

 聞くところによると、野口先生が60代で亡くなったことに関して、野口整体に対する疑問を口にする人がいると言う。野口裕介先生が60代で亡くなったことに関しても、そういう人がいるのだそうだ。

(指導者ではない立場で整体を実践している人の方が、健康で長生きしている人が多い傾向はあると思うが、臼井先生、天谷先生など、長命で現役生活が長かった指導者もいる。)

 60代で亡くなるのは早いと言えば早いし、惜しむ人も大勢いるだろう。それに、一般的には病気を克服し、長く生きているのが良いことだと思う人が多いのだし、それが指導者のあるべき姿だと思う人がいるのも分かる。それにS氏ががんを克服したのは稀有なことだし、生きる執念は見上げたものだと思う。

 ただ私は、病気を無くすことや長く生きることよりも、健康寿命、さらには死をどう受け入れるかの方が、今後、大切なことになると思うようになったのだ。

 そんなことがあった後、ずっと以前に、野口裕介先生の指導を受けたことがあるという人に会った。最初の指導者が裕介先生ではあったものの、その人は長いブランクと紆余曲折があり、もう一度整体を始めたいと言った。

 これとは別に、以前、整体協会の会員の人から「ロイ(裕介)先生はお公家さんだから」という少々皮肉めいた話を聞いたこともある。高齢の方で、裕介先生より年長だったから、いつまでも「若先生」という感じがあったのかもしれない。

 でも、先日この人の話を聞いた時、私は裕介先生の気の力を感じた。宇宙でボールを投げると、力の作用を遮る働きがないから、ボールはずっとそのまま落ちずに飛んでいくそうだが、裕介先生の真っ直ぐな気の力も、そのように働き続けていたのではないかと思った。

 私は生前、裕介先生とのご縁はなかったけれど、裕介先生の存在をそのように感じられたことは嬉しく、また感慨深かった。

 死亡時の年齢などで、その人が生きた時間の質まで量ることはできない。整体は健康指導をするものではあるけれど、死との向き合い方を学ぶことも整体の中に含まれていることも、伝えていきたいと思う。