アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

多様性を受け入れる

 先日、歩行訓練を兼ねて、ちょっと離れた場所にある公園に、歩いて行って来た。Googleで調べて行ったのだが、ある筈の歩行者専用道が工事で通行止めになっていて、思いのほか長距離歩行になってしまった。

 私は歩いている時、よく人に道をたずねる。スマホもあるけれど、何となく、人に道を教えてもらいながら行くのが好きなのだ。この時も、途中で二度、道を尋ねた。最初の人は品の良い年配の男性で、自転車を止めて、ベンチに気持ちよさげに座っていた。

 しかし、道を尋ねたところ、その人は台湾の人だったようで、日本語がよく話せなかったが、幸い、私は道を尋ねる程度の中国語(普通語)ならできるので、やりとりができ、「太遠!(すごく遠いよ!)と言われたけど、大丈夫と言って歩きつづけた。

「道聞かれ顔」という言葉がある。知らない人に何か尋ねられたりしやすい「顔」のことだが、私は「道聞かれ顔」の方でもあると思う。日本で旅行している時も、さらには海外にいても道を聞かれてしまうことがある。

 そういう私に「気安く声をかけられるようじゃ駄目だ」と言う人もいたが、私は自分もよく道を聞くし、聞かれることを嫌だと思ったことがない。(今回道を尋ねた年配の男性は、まさか日本で道を聞かれると思っていなかったかもしれないが。)

 スマホが普及しても、マスクをするのが普通になっていても、こういう見知らぬ人とのやりとりが失われるような、心のゆとりがない世界になってほしくないなと思う。

 そんなこんなで、この日は空き地に自生しているフキを見つけて摘んだり、桜吹雪やらシャクナゲやら、いろんな植物を見ながらかなりの長距離を歩いたので、帰り路は筋肉痛が出始めていた。

 こういう時、普段気づかない体の使い方の癖を調べることを、亡くなった整体の師匠に教えられた。よくしたもので、痛いなと思うと同時に手が行って、自分で調整しながら歩いていた。

 最初は右の仙腸関節部、昔から先生に押さえられると痛かった処で、私の弱点になっている。それから腸骨櫛、疲れて前のめりになってくると痛い。その後は腿。

 こういう風に観察していくと、体癖だけではない偏り疲労があることが分かる。右の仙腸関節部は私の持つ「体癖らしさ」の発揮を妨げる処だ。

 あまり込み入った説明はしないけれど、心と体両面の生活史、その時々の状態、そういうものと体癖が混在している。

 そして歩きながら、先日聞いた、職場にいる発達障害のある若い人に「できないこと」があって、それを許すかどうか、他の人との兼ね合いで悩んでいる…という話を思い返した。

 こういう話を聴くと、私はふと、特別支援学級にいる姪のことを考えてしまう。あの子もそういう存在になってしまうことがあるかもしれない、と思うとちょっと苦しいけれど、今、目の前にいる人を理解するのが一番大切なことだ。

 実際、会社は現場のことを考慮せず、数合わせで採用するだけで、受け入れ態勢が整っていないのが一番の問題とも言える状況だった。

「障害があるせいでできないのか、怠けているのか分からない」と言うその人に、私は「障害っていうものは、適応能力に制限があることなんだ、と思うようになった」と言った。

 また、そのこと以外は問題ない人なので「その人が時間通りに来させるのは無理だから、勤務時間を細かく計算できるようにした方が良いと思う」と言ったのだが、どうだったのかな…。

 いわゆる普通の人も実際にはそうなのだが、ある環境に適応するためには、ある一定の能力が求められる。それに制限があることが「障害」で、多種多様な凹凸があるだろう。

 今後、発達障害のある人は10人に1人になると言う。「普通」という枠に入らない人を排除するということも「不適応」のひとつになるだろう。

 だいたい、「普通こうでしょう」と言うことの多くは、体癖その他の条件による偏りがあって、敏感に感じる面と鈍い面、得意と不得意がある。みんな無意識的に一面的であり、それだけに他者の感じ方を受容し、大切にするのは家族でも難しいことが多い。

 体癖と発達障害は直接関係ないけれど、整体を通じて、人に対する許容範囲を広げていくことができるといいな…と思っている。

追伸

 本日、4月2日は自閉症啓発デーであることを投稿後知ってしまった…。ごめんなさい。

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散歩の途中で見つけた植物。