アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

体癖を知る意味

 野口整体には体癖論というものがあって、興味を持つ人が多いのだが、誤解されたり、本来の意味とズレた理解をする人も多く、人の欠点を「あの人は何種だから」と攻撃する人もいて、困ったもんだと思うことも時々ある。その上、最近は整体の実践もないのに、強引な応用の仕方で人に教えている人までいる。

 資料を見ていたら、野口晴哉が外国人に「体癖」を説明しているくだりを見つけたのでちょっと紹介してみよう(「野口先生との対話 活元運動について聞くⅡ 在日外国人座談会」月刊全生より)。

(「体癖について説明してください」という声に答えて)

野口 体の運動の癖です。前にかがむ癖があったり、後ろに反る癖があったり、左に偏ったり、捻れたり癖があります。意識しての運動の中にそういう無意識の運動が混じるのです。

(註 たとえば子どもがブランコをこぐ時、ブランコの振れ方が捻れていることがある。それはその子が動作時に体を捻る(お尻を振る)癖があるためで、そういう時「捻れ型体癖」があるのかな?と観る。)

多分それは体の欠点を補償する活元運動的なものだと思うんです。誰にでもそういう運動が混じっている。

 その結果、体がある方向に余分に動く、ある方向には敏感に感じるが、ある方向には感じないと言う部分ができてくるんです。そこで、その部分が体のいろいろの故障や体の使い方にも影響するわけです。

体の一部分が無意識に余分に動くから、つまりそこが刺激に対して敏感か、あるいは鈍るから、余分に動いたり全然動かなかったりして、意識運動が少しずつ歪んできて、それが癖になるのです。

…そして前屈する癖のある人は、知らない間に、卑屈になるとか、余分に内向してしまうとか、また逆に余分に行動的になるとか、体の使い方と同じように心の動きにも癖が生じてくるのです。

  ざっくり言うとこういうものなのだが、体癖は単に人をタイプ分けするためにあるのではない。体癖の目的として私が最初に知ってほしいのは、「健康な生活を送るためにある」ということだ。

 体癖に限らず、整体生活というのは「自然であること」を価値観の中心にする生き方のことだと言って良いし、健康であること=自然であること、というのが野口整体の観方である。

 しかし「自然であること」は、人間にとって難しい。私は以前、NHKのドキュメンタリーで、アマゾンの狩猟採集民が子どもの「間引き」をする場面を見たことがあった。

 一見自然のままで、エデンの園に住んでいるかのように見える彼らだが、そこでは、ある妊娠した女性(10代)が、食糧問題などを踏まえ、その子を平等分配型コミュニティの一員にするかどうかを悩み、決断して自ら手を下していた(天・精霊の世界に帰すと理解され、蟻塚に新生児を入れる)。

 極端な例だけれど、人間という種である以上、どのような環境にあっても、もうエデンの園には戻れないのだと思った。

 しかし、体というのは自然のリズムで動いており、自然ということを離れて健康というものは無い。一生の間、健康状態を人為的に管理することは不可能だし、それは健康とは言えない。

 そこで私は、自分が「自然であること」とはどういうことかを知る着手として体癖を知ることをお勧めしたいと思う。

 身心ともに自然から離れている人は、体癖がはっきりしないし、本来とは違う体癖のように見える。また、体癖が不適応な形で現れる。 

 そういう時には、あまり心理的な方面から体癖を追わないで、風邪を引く時のパターンを研究する方がいいだろう。

 先の例で言うと、体が小さく、体重も軽い子どもにとって、ブランコをこぐのは全身運動である。このように思い切り力を出そうとする時、体をつい捻るのだとすれば、それはその子の自然であり、矯正することではない。

 しかし、体が捻れて緊張した形のまま、眠っても弛まない状態になっていると、その子は力を出すことができなくなる。そこで体を弛める、整えることが必要になるのだが、体が緊張と弛緩のリズムを取り戻そうとする自律過程として、風邪を引くことが多いのだ。

 風邪の始まり方には、歯が痛くなる、便秘や下痢、咳が出る、のどが痛くなる、くしゃみ・鼻水などいろいろあるが、そうした症状に主体となる体癖傾向がはっきり出ることが多い(体癖は2~3種類混在しているが、全体の緊張と弛緩をリードする体癖がある)。

 そういう観察を着手として、やはり体からの理解を基本にすることが何よりだし、そこに自然の見えないはたらきを感じてくれたら、さらに良いのではないかと思う。体癖の理解と観察にはさまざまなレベルがあるけれど、まずは自分の体を理解することから始めてほしい。