アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

生と死の連続性

 前回、知人の写真家が制作したMVを見たことについて書いたが、あれから私の中で変化が起きている。その写真家は自死したこともあって、私が思い浮かべる彼女の顔は、自分の苦い思いに色づけされて、何となく寂し気で表情が暗く、止まっている時間の中にいるような気がした。

 しかし、なぜかその顔が明るくなって、少し笑っている。そして、私の中で彼女の死についての受け止め方も変わった。

 あのMVを見た時、私はカメラの向こう側にいる彼女が生きた密度ある時間を、再現しているように感じたのだが、なぜかその後から、「自死したことは、彼女が生きた人生の結果ではない」とはっきり思うようになった。

「供養をする」というのは、もしかすると本当はこういうことなのではないかという気がしている。

 私の知人に、若いころ恋人を自死で失うという経験をした人がいる。その人はその経験を封印して、仕事に打ち込み、仕事の助けとなる女性と結婚し、家庭を持ち、経済的にも自分の想像以上に成功した。

 しかし人生の後半に入って、切り離したはずのその時のことが心に影を落とし始め、心のバランスを崩してしまった。最悪の時期をぬけて何年も経つが、終わってはいないようだ。

 このような出来事を乗り超える力というのは、その人の成育歴が大きく関わっていて、一概には言えないのだが、彼の中にはその時の感情とともに止まってしまった時間があって、ストレス負荷がかかると彼をその時に引き戻してしまうのだ。

 私は以前、自死をすると成仏できないとか、悪い生まれ変わりをするとかいう宗教的・スピリチュアル的言説を信じることができないと書いたが、それが本当はどういうことなのかが少しわかったような気がする。

 多分、自死をするということは、生命時間の流れを断ち切ってしまうことであり、それがつながりのあった人の心にも、切断の跡を遺してしまうのだと思う。

 上手く説明できないのだが、本当は、そのことを「悪」と教えるために自死はいけないというのではないだろうか。

  これは、私の師匠の死を経験して思うのだが、死んだ直後のショックを抜けた今になってみると、私の中で先生の死というのは、ある節目ではあっても、先生の人生、私が先生と過ごした時間の流れと連続している。

  病院に搬送される前日、私はこっそり先生の寝室に入って会ったのだが、その時、私は先生の顔に死相を観た。私に死相が観えるのを先生は知っていたし、私の表情で私が何を直感したかは分かったはずだ。

 その時、先生は、私に手を差し出し、握手をして「待ってろ、いいか」と何度も言った。たぶん先生は、野口整体の指導者である自分が病院に入れられ、病院で死ぬのを私に見せたくはなかったのだろう。

 でも、それまでに過ごした時間の密度、先生の死の受容、死に際、死に顔、そうしたこと全体が、私のなかに生と死を切断ではなく連続だということを教えたのだと思う。生きている体がないことに寂しさはあるとしても。

(先生の臨死時には、ある不思議なことがあって、それもまだ誰にも言えないでいるのだが、そのことも大きく関わっている)。

 生と死が「切断」として感じられるか、「連続」として感じられるかというのは、大きな違いがある。それは遺された人にも、おそらく亡くなった人にも影響するのかもしれない。

 日本人の死生観と臨死体験を研究するカール・ベッカーは、「臨死体験が宗教の基にあるのであって、宗教が臨死体験を作るのではない」と言っているが、私も宗教の核心にあることではないかと思うようになった。

あの時彼女がなぜ自死を選んだのかは分からないし、本人だって明確には分からないのかもしれない。その時はそうするしかなかった、できなかったということだと思う。

 でも、亡くなった人とのつながりは切れてしまうわけではない。自死したということで彼女の印象が暗いままになっている私にとって、あのMVは、彼女に真剣に生きた時間があることを教えてくれるものだった。そして心の中の彼女のイメージが明るくなった。

 きっと彼女はそのことを喜んでくれている。そしてより多くの人に、あのMVのなかにある、彼女が見つめたこと、彼女の生きた時間を観てほしいと思っているだろう。名前は出さないけれど、私もそれを祈る。それが表現者であった彼女に対する最高の供養と思いつつ。