アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

整体と里山の自然

 先日、かつて不眠症であり、今も「眠りが浅い」「早く起きてしまう」という人から、「寝る前に瞑想をやっている」という話を聞いた。

 瞑想法というのは、マインドフルネスなどをはじめとして、ネットで検索すればやり方はいくらでも出てくるので、何となく一人で、指導を受けなくてもできるというイメージがあるようだ。

 そして、頭と体が弛むということがないまま(分からないまま)やっていることの問題をつよく感じた。

 その人は聡明な人なので、自身が頭で体を支配しようとする傾向が強いことに気づき、「体が弛む、ということはその支配を手放すこと」という説明をよく理解してくれたのだが、なかなかこの理解は難しいことが多い。

 潜在能力の開発、心の問題の解消、その他「こうしよう」「こうなりたい」という意図(欲?)が頭にあるだけで、体というのは意地悪なぐらい、弛まなくなる。

 ま、それはともかく…。ロックなビジュアルで有名な国立環境研究所の五箇公一氏は、新型コロナウイルス禍について、「流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱」であり、「かつての共生関係を保ってきた人間社会と自然界の間のゾーニング(領域の線引き)を取り戻すことが必要」と言う。

 私の師匠は、「整体というのは里山の手入れをするようなものだ」と言っていた。臓器、脳、さらには遺伝子や細胞の世界が原生林や深海のような奥地にある手つかずの自然界だとすると、古い日本の自然観では「神域」ということになる。

整体が対象とする体表・体壁(皮膚、運動系、感覚系、椎骨の状態)は里山のようなもので、そこを整えるというわけだ。無意識と潜在意識の関係も、奥の自然と里山の関係と捉えられる。

 自然界と人間の共有ゾーンである里山を観察すれば、その奥の様子と全体性を理解することができるし、里山を整えることで奥の自然に立ち入ることなく、環境全体の秩序を保ち、ゆたかな恵みを受けることができるのだ。

だから手を出し過ぎるのも、深追いもいけない。生命のはたらきと流れに沿うことが求められる。

 これは整体だけではなく、東洋的な生命観、身体観には共通している。生きている体、生きている、という状態を外側から観るということで、開いて細分化していく解剖学を基にした発想ではない。

 こう考えると、免疫系は「奥の自然界」に入ると思うが、現代ではそこにほころびが出始めている。新型コロナウイルスは、そこを突破口にして生きる領域を拡大し、種の保存を図ろうとしているようだ。

 体のはたらきは使わなければ「廃用委縮」していく。免疫系を使わずに、薬物に頼ったり殺菌消毒を徹底していれば、その分発達しなくなるし、免疫細胞の学習もなされない。また有事の際に過剰反応したり、止まらなくなったり、体の組織を攻撃してしまうことにもなる。

(COVID-19の重症化には、ウイルスの毒性というより、こうした免疫系の暴走が関わっている。)

 整体では、食べ過ぎや対症療法、心理的要因などで経過が乱れたり滞ったりした時には手を入れるが、必要な経過をたどるための生命時間を早めたりすることはできないし、しようともしない。

しかし現代の多くの人は、症状の管理や操作をするのが当たり前になっていて、「峠を越えた」などと変化の過程を見守ることはあまりしない。民間療法や東洋医学であっても、管理や操作という発想で「利用」しようとする。

 こういうことが、頭が体を支配する傾向を助長しているし、体の自然という、裡なる神の領域があることや、それに対する畏敬というものが分からなくなっていることの大元にあると思う。

 本来、瞑想というのは、裡なる神の領域を感じ、つながりを取り戻すためのものである。本当の安心というのはそこから来るものだし、もともとその存在を前提として瞑想は行われてきた。

 しかし、この瞑想がメソッド化されることで、何かの目的で利用するような気持ちで行われる傾向が過ぎてはいないだろうか。

 野口整体の活元運動も、「利用する」ではなく、「裡の自然にゆだねる」態度で行うことを大切にしてほしい。

(補)変異と免疫

 新型コロナウイルスは、免疫不全患者で感染の症状が長期化する傾向があり、ほかの一般的な感染者よりも免疫不全患者の体内で変異を起こす可能性が高いと考えられている。

 免疫不全患者には、病原体と戦う能力を低下させるまれな先天性疾患を抱える人だけでなく、移植や自己免疫疾患の緩和のために免疫抑制剤を服用している人なども含まれる可能性がある。ちなみに安倍元首相の疾患、潰瘍性大腸炎も自己免疫疾患のひとつ。

(Wired「新型コロナウイルスの「変異」は、なぜ起きるのか? 現段階で見えてきたこと」より)