アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

見ることと、世界とのつながり

ある女性写真家の思い出、これで最後。 

 最近、続けて書いているけれど、どうもこのところ、何年も前に亡くなった女性写真家のことを思い出してしまう。彼女にとって、写真を撮るとはどういうことだったのだろう?

 彼女は生前、いろんな人から「海外で仕事をした方が活躍できる、才能を活かせる」とよく言われたそうだ。しかし、本人は「私は西洋的な個の確立というのができない、自分にはそういう強さがない」と言っていた。

 彼女の育った家は医師の家系で、曽祖父は藩医、祖父は明治時代にドイツに国費留学し軍医をしていたという。父も医師で、戦前に国費留学したそうだ。本当に森 鴎外さながらの家柄で、彼女はお手伝いさんに「様」づけで呼ばれて育った、真のお嬢様だった。

 学生の頃はジャーナリズムにも関心があって、左翼的な学生のグループにも近づいたことがあったが、家に帰ってお手伝いさんに「○○様」と呼ばれた時、「自分にはこの思想は無理だ」と思ったそうだ。 彼女の実家は、戦前は近代という時代の先端を行っていたのに、戦後は旧態依然、前時代的になってしまったのだ。

 こういう「古さ」を引きずっている彼女と、彼女の使う古い戦前のカメラは、どこかつながっているようにも思う。

 母親と姉妹は自分とは全く違うタイプだが、父親は「ほんとは作家になりたかった」というような人だったそうで、小さい時から理解者だったという。彼女が写真を始める時も「やりたいことをやりなさい」と言ってくれたそうだ。

 私が彼女と出会った頃は、もうすでに父上は亡くなったとのことだったが、今思うと、彼女にも意識できない深いところで、父の死が影響していたような気がする。

 それから、彼女が使っていた、あの古い大きなカメラ。あの古いカメラで現代の人や風景を撮っていた。私は正直に言うと、彼女の写真集を最初に見た時、何て寂しい、虚無的な写真かと思った。

 しかし整体の師匠が亡くなった後、自分の見ている世界が彼女の撮った写真に似ていることに気づいた。その頃私は、自分の時間が止まっていて、周りの人と環境とのつながりが感じられなくなっていたのだが、その時に見えた風景が彼女の撮った風景に似ていたのだった。

 当時は、自分もすぐ死ぬような気がしていたのだが、それは私が医師と直に先生の延命措置や治療を断る話をしたこと、そして死のショックとともに、周囲と共有できない感情を内攻させたことが原因だった。

 私の場合は、感情が流れ出し、体が動き出して、泣きたいだけ泣けるようになってからは、もう景色がそういう風には見えることはなくなった。

 でも彼女は、父が死んでから、世界がずっとそういう風に見えていたのではなかったか。彼女はそれを作品世界として表現し、写真は今、ミュージアム・ピースにもなっている。しかし彼女は、今の自分の写真を超えたいと言っていた。

 今、世界と自分との関係性、つながりが見えないという苦しみや、自分の存在に虚無感を感じている人は多く、彼女の写真の中の世界は、そういう人の見ている世界と重なるのかもしれない。

 ただ、私が彼女に出会った当時の、彼女の心と体の状況には、父の死が深く関わっているとしても、彼女の作品世界はそれだけに集約できるものではない。でも、現代的でドライな印象だけではなく、彼女に痛みがあったことも知ってほしいと思い、書いてみた。

 そういえば、もうすぐお盆。亡くなった人のことを思い出す時期なのだろうか。