アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

死についての学び

 前回、自死をすると、死後、苦しむことになるという霊的、宗教的な教えは信じられない、と書いたが、その後、若い俳優の自死が報じられた。

 それで、私の今の気持ちとしてもう少し補足してみると、事故死や病死などは仕方がないが、自死は罪深いとか、そういう区別が理解できないということだ。

 前回書いた知人の女性写真家の自死を知った時、私は「一人ではないと思ってもらうことぐらいはできたのではないか」と思い、それがやはり辛かった。

 整体の師匠が亡くなる半年前、「このままでは死ぬ」と思った時は、私より能力のある人に指導をお願いできないかと思ったし、亡くなった時は、「生きることよりも死を選んだのではないか」という思いと、何かの折に不意に襲ってくる「あの時、なぜこうしなかったのだろう」「あんなことを言うのは間違っていた」という思いに苦しんだ。

 でも今、私は、人が死ぬことには誰も介入できないのだと思う。野口晴哉師は、病院で見放された人でも治してしまうので、神技と言われていたが、弟子の臼井栄子先生(確かそうだったと思う)は、「(治療技術がすごいというより)野口先生は、死ぬ人には最初から手を着けないのだ」と言ったそうだ。

 それは、私の師匠が若い時に自分の手に負えないがんの患者を野口先生の下に連れて行った時の話で、野口先生にぼそっと「…○○君(先生の名前)は何をやっているのかな」と言われ、凍り付いた…と言っていた。その後、その人は20年ぐらい生きて、がんが消えて無くなったかどうかは分からないが、普通に長生きだったという。

 確かに野口先生は、子どもの時。病人が死ぬ方向にあるか、生きる方向にあるかを観てとることからこの仕事を始めたと言う。その後も観察の着手はいつもそこにあったし、そういう生死についての真剣さと注意力、敏感さ(勘)は、この仕事には必要不可欠なことだ。

 そういう野口先生でも、多くの人の死は自殺であり、寿命を全うする人は少ないと言う(先生に言わせれば、もっと生きられるはずの人が死んでいるという意で、死の要求が出てきた時に人は死ぬという観方がある)。

 ちょっと話がそれたが、死というのは価値判断や他者の介入を許さない厳粛で非情なものであって、多くの場合、その人が死の方向を向いたらどうにもならないのではないだろうか。

 自分の死は一度きりでも、まだ自分の身に死が近づいている実感がなくても、他者の死は生きている間に何度か経験する。大切な人の死にあったら、心の中でその人に話しかけたり、疑問があったら尋ねてみる、ということをやると良い。いろんな形で、答えは返ってくるものだ。

そして、死者の視点を心の中に持つことが、大切だと思う。この、死者が生きている自分たちを見ている目というのは、キリスト教的な人間から隔絶した神の視点とは全く違う。けれども本当の自分、裸の心をじっと見ている眼だ。怖いようだが、私の中では、この死者の目が大きな支えになっている。

 こうして、体験を深めていくことが、生きている時の死についての学びなのだと思う。