アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

「理解されたい」という思い、表現、そして「対話の要求」

対話の要求

 先日、やり取りをするようになった編集者の人に「活元運動の動画を見せてほしい」と言われ、えーっ!と思ったが、私は思い切って自分の活元運動を撮ってみることにした。

 それで誰かにカメラを借りようと思ったら、なんと動画の撮れる一眼レフカメラをただで貰うという運びになって、もうやるしかないと思い、見てもらうことになった。

 最近、YOU TUBEなどでも活元運動の動画をupしている人がいるが、私はやったことのない一般の人に、「活元運動はこういうものだ」という固定観念を植え付けるだけで、良いと思ったことはない。

 石原慎太郎氏は活元運動の実践者だが、「夫婦の間でも見せるものではない」と自著で言っていて、私も活元会や個人指導という場以外では、そういう感覚の方がまともではないかと思っていた。だから私が活元運動を自撮りして人に見せるなんて青天の霹靂なのだ。

 そして、簡単にメールで説明をつけて、動画を見てもらったのだが、この説明が意外なほど反応がよく、なるほどー!と言ってくれた。

 今、温めている企画のたまごがあって、それが実現するかどうかはまだ分からないのだが、私は「理解された」ことがひどく感慨深かった。

 活元運動というと、実践している人であっても、一般に「理解されない」と思う人が多いのではないかと思う。実際、野口整体に関心を持つ人であっても、活元運動がハードルになって深入りしない人も多い。

 私は普段から、「野口整体をやる人とやらない人の違いとはどういう所にあるのだろう」と思うことが多かったが、ことに新型コロナウイルスパンデミックがあってから、それが溝というか見えない壁があるかのように感じるようになっていた。

 それが、「理解された」ことで、一気に霧が晴れたような気持になったのだった。

 

 そんなことがあった後、、ジョン・レノンのソロアルバムを聴いていたら、昔から好きな二曲(Isolation・Real Love)の中に「I don’t expect you to understand(理解されることは期待していない)」という同じ言葉が入っていることに、今頃になって気づいた。

 これがジョン・レノンのよく言った言葉なのかどうかは分からない。でも、「理解されたい」という気持ちがあるから、このように言うのだろう。ジョン・レノンでもこういう気持ちがあったんだな…とつくづく思うとともに、表現の原動力というのはこういうものなのかもしれない、と思った。

 他者に理解されたい、と同時に、自分でもとらえきれない自分を理解したい、という気持ちの両方があるのだろう。私がこんな私的なブログを書いているのも、きっとそういう気持ちがあるからで、ことに私はそういう要求が強いのではないかと思う。だから理解されないということが、ごく小さい時から不満だった。

 体癖で言うと、開閉型9種というのはそういう感受性が強いと言われる(ジョン・レノンは違うと思うが、成育歴によってはそうなる)。野口先生も、もちろん両親などには理解されなかっただろうし、私の整体の師匠もそうだった。私にもこの困った体癖があって、理解されないことに孤立を感じるし、愛するということは理解することなのだと思っている。でもそれは、体癖以前にある、人間の要求でもある。

 私の整体の師匠は、ことに「自分は理解されない」という思いの強い人で、実際、整体協会の中でもそうだったようだ。整体指導者になる4段位の試験でも、まだ若かったこともあり、野口先生と臼井栄子先生だけが認めてくれたとのことだった。

 野口先生が亡くなった後は一人で自分の個人指導を深めていって、それを本に書いたのだが、先生は「自分が変わったのは思ってもみないほど多くの人に理解されたからだった」と言っていた。

「理解されたい」という気持ち、「理解されない」ことに対する不満。それは、人間には「対話の要求」があるからだ、と野口先生は言った。注意の要求というのもあるが、対話の要求はもう少し人間ならではの要求ではないだろうか。

 自分が心から大切だと思っているものに理解が得られるということは、本当に、自分を変え、世界を変えるぐらいの力があることなんだな…とつくづく思った。