アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

日本の身体文化と着物

 着物と身心の中心

 20代前半の頃、着物を着る機会があり、式場で着付けをする仕事をしていた伯母に着付けをしてもらったことがあった。

 その時、伯母は着付けをしながら「この子には腰がない。だから下腹で中心を合わせようにも合わせられないから着付けがしにくいし、こういう体はすぐ着崩れる。今の若い子はみんなそうだ。」と私に言った。

 この「腰がない」「中心が(下腹に)ない」という言葉の意味が分かる人は、今、どれくらいいるのだろう。私もその時、はっきりと意味は分からなかったが、ものすごく本質的なことを指摘されたと直感し、どきっとした。

(ちなみに伯母がここで言う「中心」は「背中心」という背筋のことではなく、下腹の中心のことを言っている。)

 そしてその後、伯母はお茶を飲みながら、最近の若い子が花火大会などで浴衣を着ている姿を嘆き、「昔は娼婦でもあんな風ではなかった」と言っていた。

 伯母のこういう話を聞いて、私は着物に関心を持つようになり、幸田 文の『きもの』という小説を読んだ。

これは母親になぜか疎まれている少女が、祖母に着物の着方を通して心の持ち方を教えられ、成長していくという物語だったが、着物には自分で着るだけではなく、人に着せるという文化があって、着せる時にその人の本質が観えるのだということを知った。私はこの小説に日本人の身体感覚と心の機微も教えてもらった。

 その後、私は野口整体を本格的に学び始め、30代前半にまた着物を着る機会があって、あの伯母に着付けをしてもらった。伯母は私の腰紐を閉めながら、ちょっと驚いたように「ん?あんた、低いわね…」と言った。

 それはさながら、おぬしできるな、というようなニュアンスで、実際の年齢よりもやや低めの位置に帯を締めることになった。

 その時の着物が、祖母の形見だったこともあってか、母は「老ける」と言って気に入らない様子だったが、伯母は「年齢よりも中心が低いのはいいことで、こういうのは粋上品と言うんだ」と言った。

 先の『きもの』という小説の中でも、おばあさんが娘らしい着物を好かない主人公の好みを「粋上品」と言ってかばうところがあって、私は「同じこと言うんだな…」と思った。そして、帯の位置は伯母の決めた通りにしてもらった。そして、20代前半の時の私とは違うことを伯母が分かってくれたような気がして、嬉しかった。

 たしかに20代前半に着物を着た時、あまり快適な感じというのはしなかったのだが、整体を始めてから着た時は本当に快適で、着崩れることもなく食事もおいしく食べることができた。

 この時、めずらしく日本料理の料亭に行ったのだが、そこのかなり年配の仲居さんにも着物と着付けを褒められて、「何か(お稽古事)されているんですか」と言われた。私は「野口整体です」とは言いづらく、「いえ、特に」とごまかしたが、分かる人には分かるんだな…という思いだった。

 着物の帯の位置というのは、体と心の成熟度や安定性を意味していて、武家の男の子の元服の儀式では、それまでお臍のあたりだった帯の位置を下腹の丹田の位置に締めるとのだが、これも自分ではなく親せきや知人の大人の男性が締めるのだという。15歳でその位置では低いのだが、そうやって大人としてあるべき心の状態を身体感覚的に教えるのだ。

 20代前半の私は、まだ本当に子どもで、自分の心も進む方向性も分からない、苦しい時期だった。精神的にも不安定で、自分に信を置くことができず、拠り所を求めているような状態だった。

 これは整体を通じて学んだことだが、相手の中心というのは、まず自分の体の中心を下腹に決め、自分の体と相手の息と体に合わせることで捉える。すると相手のことが不思議と感じとれるようになってくる。

 あの頃、私は誰にも言えなかった本当の心の状態を伯母に見抜かれ、「腰がない」「中心がない」という言葉で言い当てられたような気がして、どきっとしたのだ。そして、整体と出会ってからの私は、それだけ心と体が成長したということだろう。

 整体を始めてからの自分の変化として、整体の先生にこの話をした時、先生は本当に喜んで、何度かほかの人にもこの話をするように言われた。この出来事を思い出すと、90歳を超えて健在の伯母に、もう一度着物の着付けをしてほしいなあと思う。