アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

生きている言葉と死んでいる言葉

生きている概念やイメージは
自分の成長と共に変化して
他の素材と結びつき
その意味を広げて大きくなって行く。

死んでいる素材は
変化する事なく留まり続ける。

自分の思考過程で使っている素材に対して
生きているものと死んでいるものとの
区別を意識してみるのも面白いかもしれません。

こういう言葉を、前回の私のブログに寄せてくれた人がいる。
今回は、このことをお題にしてみようと思う。

やっぱり、知っているというだけのことは、やっぱりちょっと死んでいるというか、
止まっている感があるな、と思う。
感じることであっても、感動があるのとないのではやっぱり違う。
感覚にも、外界感覚的なのと、身体感覚的なのがあるのだろう。
その中でも、皮膚で感じたこと、筋肉で感じたこと、骨で感じたこと、それぞれ違う。
頭で感じたこと、腹で感じたことも違う。

自分の中で生きていることには、感情がある。
それも、嬉しい悲しいとか、好き嫌いとか、
そういう色付けが洗い流されて、透明になった感情。
色がついている時は、その人個人の範囲を出ないけれど、透明になると、他者の心に浸透したり、動かしたりする
心の媒体のようなものになるのだと思う。
気、というのがそれだ。

このコメントを貰って思い出したことがある。

ずっと以前のことだけれど、ある40代の女性が、ある名の通った整体指導者の指導を受けていたが、私の整体の先生の指導を受けるようになった。
その女性の話を聞く機会があって、彼女はその指導者に「あなた、死にたいんでしょう」と言われたという。
がんと潜在意識の深い関係についてはよく知っている人だったが、その言葉に言い知れぬショックを受けたと言っていた。

確かにその女性には、死を美化しているようなところがあって、そこを捉えて言ったことなのかもしれない、とは思う。
しかし、潜在意識についてのことは、真理であっても、知っているだけでは何にもならない。
野口先生の説くことは、すべて自分の涙や痛みと引き換えでなければ理解することはできないものだ。
ましてそれを使うとなったら、自分の感傷も洗い流さなければならない。
そうでなければ、相手を傷つけるだけになる。
この指導者には、それがなかったのだろう。私も胆に銘じようと思う。

 

お題をもらうのって、なかなか面白いもんだな…。