アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

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魂の問題

魂の問題      

野口晴哉『風声明語2』(ブログ用に改行あり)

 私はこの問題に就いて落ちついて考えたことはなかった。あってもなくてもどちらでもよいさ、と否定も肯定もしない。したがって懐疑もない。そういう気持ちでいた。或る日、鵜沢総明氏の応接間で何気無しに傍らの書物の頁をくったら、こんな詩がその中にあった。

 「五柳先生本在山偶然客落人間

秋来見月多帰思自起開籠放白鵬

 誰の詩だか知らないが妙に心に残ったので、帰宅して墨をすり記したところが、何か自分の心の裡にも同じ心があるような気がしてならない。魂というものがもしあるとしたら、その故郷へのノスタルジャーがある筈だ。この気持ちはそんなものではないか、とその時初めて魂というものを有ると感じて考えた。

 人間の恋愛にしても事業にしても、理想の実現のために裡の要求からスタートするのだが、誰もどんなところに於てもかつて満足しない。秀吉は日本全国を統一したら海外のことを考え出した。

 果てしない要求に駆られて限りあるいのちを費やして生きているということは、生きているということそのものの裡に人間の考えと別なものの動きがある。

 自然の要求、そう私は考えていたが、自然の要求とは何か、成るものは破る方へ、破れたものは成る方へ動いてゆく動きと思っていたが、しかしそれのみで解決のつく問題ではない。魂の問題を私はこうして考えるようになったのである。

 それ以前に私はしばしば心霊現象と伝えられているいろいろなことを知っていた。たとえば自分の知人の死ぬことは殆どその死ぬ前に何らかのことで感じた。

 或る時はその人の姿を見た。或る時は声をきいた。或る時は床のバラの花が落ちた瞬間、バラの花の落つるように死にたいという人のことをふと思った。そして照会すると、死んだ瞬間はその落ちた時だった。こういうことは少ない数ではない。

 しかし、私は心理療法を行っている者であって、テレパシーやラッポール現象を知っていたので、その一種として考え、これを心霊現象とは思わなかった。死ぬ人の姿を見て、それを照会して、その死んだ時間が一致したその時に於ても、心霊の存在ということに就いては考えなかった。心霊実験会の非物理現象を見ても、奇術としか考えなかったが、この詩をよんで以来、私は真剣に魂というものに就いて考えるようになったのである。 

 已に魂の有無を論ずるということは裡に何らかその分子があるからに他ならない。活け花の美を感じない猫は水をのむ為に花をこわしてしまうが、その花の活けられた形が美しく感ずるものは、上手というも下手というも心にその美しさがあるからに他ならない。魂の有無を論ずることそのものが魂のあることを明らかにしている。

 魂はある。しかし宗教家のいう魂と商人のいう魂は違う。画家の魂と武士の魂は又違う。しかし魂のある者は無い者とその行動が違うことだけは確かである。魂のある商人は利害得失を使い、その損失にも平然とし、魂のある政治家は利害得失の為に動かない。魂は矢張り無いよりあるにこしたことはない。私は魂はあると思うし、又誰にもあってほしいと思う。

 しかしこういう魂のことではない、殻をはなれて存在する魂が魂だと宗教家はいうが、私は同じものと考える。殻をはなれて存在する魂を魂によって感じている人が宗教家というのである。死に臨んで平然と死ぬことを活かすことのできる人が武士の魂のもち主である。生きても死んでも永久に美の中に生くる者に芸術家としての魂がある。 

 それ故私は生命というものを魂という名で感じているのかもしれない。しかし、私は魂の中に動物的生活を見ない。生活機構のうちにはこれは欠く可らざるものである故、生命というものをいえば、この問題も当然一緒のものになってくる。それ故、魂として人間を考えたいのである。

 ところが、最近魂をいう人が、動物霊が人間を支配するとか、先祖の霊の祟りで病気になるとか申していたが、私はそういうことを魂の問題に入れて考えることはできない。宗教業繁栄の方便として使ってはいるのだろうが、こういう人と私は魂のことは語れない。

 魂のことは結局、言葉で語って判ることではない。魂で感ずることだけだ。それ故、魂の無い人は言葉で判らせることはできない。魂の言葉は魂にしか聞こえないのである。その有無は別として、私は魂によって生きたい。

 

 

(註1)鵜沢総明

日本の弁護士、政治家。極東国際軍事裁判においては、日本側の弁護団長を務めた。

(註2)「五柳先生本在山偶然客落人間 秋来見月多帰思自起開籠放白鵬

 唐代の人、雍陶の詩。

 五柳先生(詩人の陶淵明の意)は、もとは山(自然)にいたのだが、たまたま人間の世界に生れ落ち旅人となった人だ。

 秋が来ると、先生は月を見て「もとの居場所に帰りたい」という思いが募った。

 そして思わず、飼っていた白鵬(雉に似た白い美しい鳥)を、籠から放したのだった。(玄による意訳)