アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

『白隠禅師 夜船閑話』と『霊療術聖典』を読み返す 2

『霊療術聖典

『霊療術聖典』は昭和9年発行(私の手元にあるのは復刻版)、当時有名だった15名による霊療術を紹介している。野口昭子夫人の『朴歯の下駄』にも出てくる本だ。

 初めてこれを読んだ時、霊療術なるものの大家として野口晴哉先生(当時20代初め)が紹介されているのにはちょっと驚いた。今、野口整体が「霊療術」というジャンル?に入ると理解している人はあまりないと思うが、源流はここにあることがよく分かる。

 私はこれまで、野口法(野口整体。原稿は野口先生の書下ろし)の頁しか読んだことがなかったのだが、今回、ほかの療術も読んでみた。

 私が知っているのは松本道別「人體放射能療法」、田中守平太霊道」ぐらいで、後は全然知らないのだが、おしなべて表現が濃いというか個性的というか、ちょっとやり過ぎという気もする。

 霊療術の多くに霊動法(整体での活元運動)類似の運動が含まれており、当時の方が今より普通に受け取られていたように思える。ただ、現在まできちんと継承されているのは野口整体だけかもしれない。

 どの療術も坐と呼吸、気海丹田、気、精神統一(精神療法)といったことが基本であり、触手療法と修養法からなる。

 この精神という言葉を、今は理性や意識と受け取る人が多いかもしれないが、この時代は「気」「霊性」という意味である。当時、野口法は「精神療法」とも言われていた。

「霊」という言葉も、今でいう潜在意識、無意識(宇宙霊は集合的無意識)の意味で使われている。この本では霊界の三傑などという表現もされているが、今、霊界というと死後の世界を思う人が多いし、随分言葉の意味が変わったものだ。

 大雑把に言って、霊療術とは、仏教、各種神道道教儒教修験道、武術などに伝わる瞑想的行法と多様な民間療法の伝統を引き継ぐものを意味する、と言っていいだろう。

 そして、この本にある野口先生の、

「自ずから心がスラスラ働いて、どこにも引かからず、止どまらざるが、是れ即ち静かなる也」

「心に滞り捉われがなくなると、いのちの働きは無礙となって、人は自ずから健やかとなり康らかとなる。」

という言葉は、白隠禅師の自由闊達さに通ずるところだ。

 それにしても、野口先生の文章はすっきりとしていて、「濃い」15の霊療術の中でモダンさが際立っている。冒頭の紹介文には、

本書の目的とする所は諸霊術家の実地健康法の紹介であるが、・・・野口法は理論的、哲学的に注目すべき特徴あるため、特に本法に限りその哲学的方面を主として紹介することとした。

とあり、これは野口先生の意向だったのではないだろうか。

 この中では野口法(野口整体)が最も命脈を保っていることを考えると、「思想のないものは滅びる」という野口先生の言葉は、やっぱり正しかったのだな・・・と思う。