アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

「個」と全体の関係 2

 小学校の学級というのもひとつの人間社会であって、子どもなりに精いっぱい背伸びしたり、負けずに頑張ろうとしたりしているものだ。しかし、その集団の中で外れているように見える子がいる。最近までクラスの中心にいた子が外れたように見える時もある。

 担当している子どもだけに集注している時間が減って、担当している子がいじめられるのではないかという密かな心配をしなくなり、ほかの子のことも見えてくるようになると、そういう子たちが私に近づいて、家庭の状況のことなどを話してきたり、何かと私に尋ねてきたりするようになった。

 そういう時、ほんのちょっとの時間でもその子に注意を集め、気持ちを受け止めることができると、子どもは全体の中に戻っていく(子どもたちは私にべったりすることはなかったし、担任の先生とも信頼関係ができていった)。

 大人でも体調を崩す前は、こういう心理状態(心的孤立)にあるものだが、顔を作ったり、人のせいにしたりごまかしたりするのが上手になっていくにつれて、本当の心が分からなくなっていくのだ。

 こうして私は、担当した男の子と、学級の子どもたちを通して、気と潜在意識(「注意の要求」など)のはたらきについて、初歩の初歩を学ぶことができた。そして個人指導というものがなぜ必要なのかについての初歩的な理解をすることになった。

 そして、担当した子どもを通じ、私の中にある、子どものまま育っていない心の存在にも気づかされたのだった。

 

 潜在意識教育の難しさは、因果関係を分析したり、問題を指摘するだけでは何の解決にもならないということにある。これは身体の観察においても同じことが言える。まず大切なことは、相手が「どう感じているのか」そして「なぜそうなっているのか」を理解することであって、正常・異常や過敏・鈍りなどを判断することではない。

 自然な状態であれば、裡に起こる要求を感じ、それを実現するために、外界を感受しそれに応じた行動をとることができるのに、それができない、難しい状態がある(不自然)ということが問題なのだ。そうでなければ相手に必要な手助けをすることができないし、相手が充たされることもない。

 心が不安定になっていること、体が偏って不安定になっていること、この二つは一つのことでどちらも不自然さをもたらす要因となる。その大元には「情動(不快感情)」があるが、心と体の自然を取り戻す手助けしていくのが整体指導なのだ、と私の整体の先生はいつも言っていた。

 今振り返ってみても、野口整体の潜在意識教育、そして心と体をつなぐものとしての「気」についての初歩を、そして、整体の基本にある愉気の心とは何かを子どもたちから学ぶことができたのは、本当に幸運だったと思うし、ありのままの自分で私に接してくれた子どもたちに感謝している。

 最後に野口先生の「愉気とは何か」の言葉を紹介したい。

 愉気法を行う人は、人間の体にとって一番よいことはどんなことかということをきちんと理解してほしい。愉気法は治療法ではないのです。愉気を覚えて人々のいろいろな病気を治してあげるのだと考えたならば、それは違うのです。人間の裡にある力を呼び起こして、自分で自分の体を保っていけるようにするためのものなのです。

野口晴哉「天心の愉気」月刊全生)