アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

むずかしい「偏り疲労」のお話 2

 大雑把に体の面だけで言うと、偏り疲労とは、体のある部分に力が入ってしまったまま、脱力できなくなっている(または力が抜けている)状態を言う。そういう時、その部分は体全体の緊張と弛緩のリズムと運動から外れてしまい、動きを失い、感覚も鈍くなっている。

 しかもその焦点を自覚することは難しく、異変を感じても、どこが硬張ってそうなっているのか分からない。こういう時、やる気がでない、眠れない、体が重いなど、体全体の疲労感として感じることが多く、集注力が落ちて頭がはたらかなくなる(たとえば、私も先生が亡くなった後、偏り疲労を全身の虚脱感として感じ、ここという焦点は捉えられなかった。ここが痛い、変だと場所がはっきり分かる時は、比較的良い状態)。

 この「偏り疲労」という部分の異常は、骨格筋(運動系)のみならず、内臓、脳、感覚器官、神経系など身心全体に影響し、生命活動全体を方向づけるというのが野口整体の身心観だ(西洋医学では骨格筋の緊張が内臓その他の自律的なはたらきと一体であるとはあまり考えられていない)。そして、体が偏っている時、体の重心は自ずと本来のあるべき位置(丹田)ではなくなっている。

 前回、平均化体操の会の後半、力が入り難くなっていた腰椎の下部にすーっと気が入ってくるのが分かって驚き、感動してしまった(平均化体操ではあまり「気」とか非合理なことは言わないようだけれど、体感として気が入って来た時と同じだった)。そして立ってみると、体重が腰椎にかかるようになり、腰椎の軸がはっきりしていた(それまで硬張っていたから痛みもあったが、会の終わりには治まった)。なぜこうなったんだろう?とすごく不思議で、12月は会がお休みなのが残念。

 平均化体操で、向かい合って両手で押し合った後、偏っている方向に重心がずれていくのだけれど、こうして偏っている方向へもう一歩偏っていくことで、偏った状態から平衡へと向かおうとする無意識のはたらきが起こるのではないか・・・?と想像している(違ったら来年訂正する予定)。

 ちょっと長くて硬い話になってしまったけれど、伝わる内容になったかな?