アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

むずかしい「偏り疲労」のお話 1

 平均化体操の会に行くと、前説で偏り疲労についてのお話が毎回ある。偏り疲労というのは野口整体独特の言葉で、身体の観察の焦点となっている。最初は、会の始めに難しい「偏り疲労」の話をすることに少々驚いた。

 自分で自分の偏り疲労を捉えるのには、それなりの注意力と身体感覚が必要で、一般的には自覚できない(無意識化している)から、こういうものがあるという説明をするのは大変だな・・・と思う。それに、整体に携わる人でも、「偏り疲労について10分で説明しなさい」と言われ、よどみなくできる人は少ないのではないだろうか。

 だから、もし私が「前に出て説明しろ」と言われたら本当に困るだろうけど、身体の「偏り」や「重心」というのは、整体の基礎的な身体感覚を表わす言葉なので、勉強のために私も書いてみることにした。

  私は、この偏り疲労について考える場合、まず「正常な状態」とは何かを理解することが大切だと思う。「整体」という言葉は体に対して行う技術や行法のことではなく、「身心の状態」を表わしている。これは、身心の統一力の発揮ができる状態だ。野口先生は次のように述べている。

 

丈夫な体をつくる方法

 まず体を弛める。体中をスッカリ弛める。心も弛める。

 体には意識してやめようとしてもやまない不随意緊張部分がある。この筋緊張が筋紡錐から絶えず大脳へ信号を発するので大脳は休まらない。

・・・しかし弛める為に弛めるのではない。脱力し弛めるのは、全身心を一つにして緊張させ、力一パイ活動させる為なのである。しかも弛めるのは体だけではない。心も弛めなければならない。工夫や執着や憎しみや悩みを眠りの中に持ち込んではいけない。天心にかえって眠ることである。

野口晴哉『風声明語』全生社)

 「全身心を一つにして緊張させ、力一パイ活動」できる状態が、整体で言う健康、ということなのだけれど、このためには無心、天心という「心の状態」が必要なのだ。この心を引き出し、保つために体を整える、と私は理解している。そして、この身心の自然な状態を見失わせ、乱すのが偏り疲労、なのだ。