アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

修行

 

 前々回書いたように、最初に先生の胸椎七番の異常を観た後、私は平均化体操を知り、修験道の僧と出会った。それもあの最悪なイベントを主催した人の縁で知ったのだ。そして先生の死後、この二つにまた出会うことになった。何だか不思議な気もするが、用意されていたような気もする。

 あの日、修験僧は私に「あんたはもう行の世界に入っとるんや。どんなに苦しくても続けなはれ」と言った。そうか・・・としみじみ思う。やっぱり先生の言った通り、指導者になる道は修行の道なのだ。先生も、歩けるところまで精いっぱい歩いて、それで命が尽きたのだ。きっと、また野口先生に弟子入りして、修行しているだろうと思う。

 それに、先生は私に治してほしいとは思っていなかったと思う。しかし私は亡くなる半年前、「もう駄目かもしれない」と思った時から、癌と共存していこうという気持ちを失って、癌に飲み込まれていく恐怖にとらわれるようになっていた。

私が陥っていたそういう思いが、先生の真に求めている愉気をできなくさせていたかもしれない、先生に寂しい思いをさせてしまったかもしれないと思う。

  整体の先生は指導の時の愉気は「自他一如」と言っていたが、治したいと思っていたらそれはできない。私がそれに気づいたのは、情けないことに最後の一日、ICUに入ってからのことだ。あの時、先生の手を握ったら握り返してくれたのだった。

 私はやっとその時、これまで自分は死にゆく先生が受け入れられなかったことに気づき、ただそこに先生がいることそのものがいとおしい、という気持ちになった。そして、先生に寂しい思いをさせたことを心から謝った。

 本当の愉気というのは、ただ、その人が生きて存在していることを感じ、それを大切にするということに尽きるのだ。この「生きて存在している」ことを、仏教では阿弥陀仏(無量光仏・アミターバ)が丹田にいる、と言うのだろう。

 先日、古い資料を見ていたら、野口先生が指導者向けの講習会で「体に触れる」ということの危険性について述べていて、「触れるとなったら(指導を引き受けたら)相手と心中するつもりでやれ」と言っていた。一般の愉気法ではここまで言わないけれど、野口先生の本気というのはこういうものなのだと思う。

 しかし私は、先生の生きている体が存在しなくなるということがやっぱり悲しくて、心の整理がつかないまま半年が過ぎてしまった。

 

 ちょっと行き過ぎた。最初に話を戻そう。それにしても、平均化体操と修験道にどういうつながりがあるのかな。きっとこの二つの間に客観的な関係はなくて、今の私にとっての主観的意味があるのだろう。ユングの非因果的連関、共時性というやつだ。でも、今はまだ観えない。こういう時は、行あるのみ。『気・修行・身体』という湯浅泰雄氏の著作を、先生とよく読んだことを思い出した。

 それと最近、「平衡化体操」ではなく、「平均化体操」と言うのはなぜだろう?と思う。整体をやっている人には、平衡化(緊張と弛緩・集注と分散という「平衡要求の二方向」から考えて)と言う方が分かりやすいと思うけど、一般にはあまり通りがよくないのかな?機会があったら聞いてみよう。