アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

体にとっての必要性

 ウクライナ侵攻で、世界的に新型コロナウイルスの存在が霞んできているようだが、日本では三回目接種が進められ、四回目接種の話もニュースにちらほら出始めてきた。

 そんな中、あまり喜ばしいことでもないが、私は胸椎部を観察してワクチン接種をしたか否かの判定ができるようになってきた。そして先日、一か月前位に破傷風のワクチン接種をした人の観察をする機会があって、これまでのワクチンと新型コロナウイルスのm-RNAワクチンとの椎骨の変化の違いを観察することができた。

 最初は私も分からなくて「コロナワクチンかな」と思ったのだが、訊いてみて破傷風ワクチンだと分かったので、その違いを確認したのだ。

 この人はm-RNAワクチン接種後の経過があまり良くなかったのだが、二回接種の数ケ月後に破傷風のワクチンも打たなければならなくなったという経緯があり、あまり一般化できない事情もあるが、感じたことを書ける範囲で書いておこうと思う。

 私の場合、この観察の中心になるのは胸椎七番なのだが、破傷風のワクチンによる変化では胸椎七番が浮き上がったようになって、体表にも緊張による変化がはっきり表れている。

しかしコロナワクチンは奥に引っ込んだようになって、止まっているかのように感じられる。

 どうも破傷風ワクチンの場合は脾臓の働きが過剰になる傾向があり、新型コロナのm-RNAワクチンは脾臓の働きを鈍くするとか低下させるのではないだろうか。

 整体的には過敏よりも鈍りの方を悪いと観ており、やはり新型コロナワクチンは、1920年代からある破傷風ワクチンより体に対する影響は大きいのだと思う。

 しかも破傷風ワクチンは予防率ほぼ100%で10年間効果が持続すると言われているが、新型コロナワクチンは予防というより重症化を防ぐのが目的で、このままでは年に2回打たなければならなくなるだろう。

 ちなみに破傷風破傷風菌が産生する神経毒素による神経疾患で、破傷風は末梢運動神経、脳神経、交感神経が過活動の状態になり、けいれんなどが起こる。

 一方新型コロナ感染症はウイルスによるという違いはあるが、やはり神経系に作用することが指摘されており、麻痺や鈍りに向かう傾向がある。

 そして、第六波では喉の痛みとともに倦怠感(だるさ)や筋肉痛・関節痛の訴えが多いのが特徴だ。ただ、筋肉痛や関節痛を発症する人の経過は良好である(保健所調査による)。

 今回観察した人は、じつはコロナワクチン二回目接種の後(11月)から上腕と肩の痛みが続いている。個人指導でこれを焦点に操法をするのは今回が最初で、その時は可動域が拡がったり痛みが引いたりしたが、この後どうなるか経過を見ている。

 医学的にはワクチンを打つ位置、針を刺す深さが適切でなかったことによるSIRVA(ワクチン接種後に起こる肩関節障害、コロナワクチンに限らず起こる)という症状のようで、ワクチンが入ることで肩関節周囲に免疫反応が起こり、炎症が起きている状態である。

 病態はいわゆる四十肩、五十肩に近く、画像診断による所見では異常な神経や血管ができてしまうことが原因で痛みが起こると考えられている。

 整体で言うところの化膿活点という二の腕にある調律点(免疫系)と周囲が硬張ったようになっていて、整体の観察からも納得できる所見ではあるのだが、私は単に注射した場所の問題というだけではないように思った。

 このワクチンは炎症を起こすことが前提されているので、副反応は起きるものとされている。ただこのように肩関節周辺で炎症が起きるというのは、注射されたワクチン、またはそこから派生する免疫細胞、サイトカインなど何らかの物質が深部―中枢神経や臓器に入ることを防いでいるのではないかと思えるのだ。

  感染した人の症状においても筋肉痛、関節痛などは多いが、軽症で経過も良いことを考えると、この痛みには体にとっての必要性があるのではないだろうか。もっと研究が必要ではあるが…。

 何しろ分からないことが多いし、100%ワクチンが原因なのか?そういう反応にはその人の側にも条件があるだろう。何か整体や医学的な知見をご存知の方がいたらご教示いただきたい。

 晩年、野口晴哉は現代の疾患はほとんどが「鈍り」という問題によって起きているのだと言った。COVID-19という感染症がこれほど世界規模で影響を与えた根本にも、やはり鈍りの問題があるのではないかと思う。

 それは生理学的には神経系の問題ということだが、神経は運動の命令や感覚情報の電気信号を伝える導線というだけではなく、心と体の全体性を保つものでもある。痛みは心とも密接に関わっている。

 今回は思いつきばかりで、プライバシーの関係で観ているもの全部は書けない上、過度にマニアックな内容になってしまった。分かりにくい方も多いかと思う。

 記事にする前に知人の医師に読んでもらった方が良かったかなとも思ったが記録としてそのまま書いておくことにした。くれぐれも安直な当てはめ、類推をしないようお願いする。

抵抗力を大ならしむるの法は 

呼吸を深くし 心を調え 身体を正すこと也

これ健康の三原則也

野口晴哉 昭和六年)

 

外界からの感覚刺激と身体

 花粉が舞う季節がやってきた…。私の整体の師匠は花粉症持ちで、「カレーを食べると楽になる」と言っていたのを思い出す。私も先生ほどではないが花粉症があり、先生の影響でこの時期になるとカレーが食べたくなる。

 しかし今は何だか肉のカレーは気が進まなくて、魚のカレーを作ってみた。鯛とカジキマグロ(いずれも切り落とし…)のカレーだ。魚のカレーを作るのは初めてだったが、本当においしい!それにカレーを食べるとやはり花粉症が鎮静化するのが不思議だ。それも一口目から変化を感じ、効果が4~5時間続く。

 この「カレーが花粉症に効く説」について調べてみたところ、効果を認めている人は一定数いるのだが、根拠は様々ではっきりしていないようだ。

 私の実感では、食べることによるのではなく、おそらくスパイス類の香りを粘膜から吸収することによる、アロマテラピー的効果なのではないかと思う。私はニンニクなども使い、中村屋のフレーク状カレールーにカレー粉を足して香り効果を高めているが、インドカレーだったらもっと効くのだろうか?まだ実験していないけれど。

 それはともかく、ウクライナの情勢は深刻さを増し、破壊と攻撃の凄まじさが連日報道されており、ウクライナ避難民の嘆きも連日目にせずにはいられない。

 大人の年齢にある人はこういう現実に目を背けてはならないが、身心の健康を保つ上で気を付けてほしいことがある。それは、こういう映像やニュースを漠然と見ないということである。

 できれば涙を出したり、声を挙げたりと感情的なリアクションを表出しながら見る方が良いし、漠然とではなく「しっかり見る」という姿勢で、意識をはっきりさせてから見るようにしてほしい。

 何となくとか、流れている映像を漠然と眺めていたりする時というのは、外界から入って来る感覚刺激に受け身になっている。

 そういう時は自分ではそれほど動揺していないつもりでも、感情的ショックが内攻することがあるし、許容範囲を超えていることにも気づきにくい。

 また、感情を表出できない時もあまり見ない方が良い。情動を身体的に表出するのはショック(緊張)和らげるためであり、泣く(涙を流す)というのはその代表的なものである。実際、泣ける人(情動反応がはっきりある人)の方がストレスに対するレジリエンスは高いことが多い。

 まして小学生以下の子どもは、感覚刺激に対する抵抗力も未熟で許容量も低いのだから、こういう常軌を逸した暴力や破壊を見せないほうがいいと私は思っている。

 子どもが戦争や暴力に関わる内容に触れる場合は、文学などのフィクションによる方がよく、ダイレクトに絶望的な現実を見せる必要はないと思うのだ。それだけに現地の子どもがどれほどの衝撃に曝されているのかを考えると、暗澹とする。

 太平洋戦争でも、子どもの時空襲を受けた人の中には神経的に影響が残ってしまった人が多くいる。私の知人にも、小学生の時に空襲に遭い、高校生ぐらいまで寝ている時に物音がすると飛び起きて外に出てしまうのが治らなかったという人がいる。20才位の時に結核にもなって、呼吸器は弱いままだった。

 野口整体の潜在意識教育というのは、子ども時代のストレスが大人になってから健康に生きる上で深刻な影響を遺すという問題が出発点になっているが、子どもの意識は大人より覚醒度が低いが故に身体に深く影響が残ってしまうのだ。そのため小さければ小さい程影響が大きい。

 話はそれたが、大人も疲れていたり、ぼんやりしている時など、覚醒度が低い時の方が刺激を一方的に受け入れてしまうことになるので、健康のために自分の許容量を超えないよう意識する必要がある。心にとめて置いて頂けたら幸いである。

明日なき世界

 ロシアのウクライナ侵攻についてのニュースが連日報道されている。記事を目にすると、自ずと『明日なき世界』(Eve of Destruction)という古い曲が思い出される。

 日本では高石友也忌野清志郎(RC)のカバーが知られており、私が最初に聞いたのは忌野清志郎だったが、先日初めてBarry McGuireの原曲も聴いてみた。今の情勢には原曲の悲愴感が合っているような気がした。これまでパンデミックだ、オミクロンだと騒いでいたのが呑気だったと思うぐらいにウクライナの情勢は悪化している。

 この問題についての記事は様々あるが、私が気になったのはプーチン氏の健康問題についての記事で、神経系や呼吸器系の病気によって、正常な判断力を失っているのではないかと言われている。

 確かに昔のKGB的というか、陰気で冷徹な顔と較べると、最近の写真は少し不安や怯えなど感情が顔に出ているように見え、姿勢が前傾していて首が前に出ている。神経系や呼吸器系の問題はありそうだし、顔がむくみ、体も昔より太っているように見える。

 また少し前に、プーチン・カレンダーなるものの記事で上半身裸のマッチョな写真をいくつか見たのだが、虚勢を張っている、または強さを誇示しようとしているのがありありと分かる写真だった。

 恐ろしいことだけれど、もしかすると何かに突き動かされて頭の統制が失われた状態で動いてしまい、ブレーキがきかなくなっているのだろうか。

戦争という非合理なものを始めてしまう時は、皆そういう状態にあるのかもしれないが、自分の利益と保身しか頭にない部下に取り巻かれた、情動のコントロールができない孤独な人間の手中に核兵器がある。

 しかしそれでも日本での生活が激変するわけではないので、こうしてブログなんぞを書いていられるわけだが、少なくとも新型コロナウイルスより恐ろしいものがあることを改めて思い知らされたのは、それなりに意味があった。

 何はともあれ、今日の夕ご飯はエビのトマトクリームパスタとカブの味噌汁。取り合わせはちぐはぐだけれど、ていねいに作ってみた。何もできなくとも、自分の中の平和は保っていこうと思う。

健康生活の原理

 活元会に参加している人から『健康生活の原理 活元運動のすすめ』についての問い合わせがあったので、会の前説でこの本についての話をした。

 活元運動とは何かについて述べた野口晴哉の著書は、一般書店で手に入る本では『整体入門』、全生社では『整体法の基礎』などがあるが、その中で最もお勧めの本である。

『健康生活の原理』は野口晴哉の死後すぐに出版された最後の著書だ。私の師匠は「野口先生の置き土産だ」と言っていた。ペーパーバックの小さな本で、今も廉価で販売されている。

 本文は「今まで人間は物として研究されてきました。そして意志で動いているという面が強く言われております。」という一文から始まる(物でない人間の営み)。私がこの本を初めて読んだのは20代の終わり頃だったが、冒頭からはっとするほどの強い衝撃を受けた。

 今回の活元会の前説では、野口晴哉は西洋医学が遺体の解剖を基礎にしていることを問題にしていたこと、私の師匠も医学生が人間の体を知る着手が遺体の解剖であることは、その後の身体観に深い影響を与えると言っていた…という話から始めた。それから整体操法を学び始めた当時、塾生の中に医師がいて、その人が実習で「頭蓋骨が動く」ということを知り、驚いていた…という話をした。

 この「頭蓋骨が動く」という単純なこと一つとっても、解剖実習や標本で見る頭蓋骨は生きていないのだから動くはずもなく、無機的なヘルメットにしか感じられないだろう。生きている身体に手で触れることで、初めて頭蓋骨は動くと実感し、分かることなのだ。

 活元会の後、焼きたての鯛焼きを食べながら当時の思い出にしばし浸った。私は本について話そうとしたら、活元運動云々よりもこういう話が自然と口から出て来たことに驚いていた。

 そういえばあの頃、先生と塾生の医師のやりとりはいつもスリリングで面白かったが、先生は整体の観方を学ぶ上での最初の問題を教えようとしていたんだな、と思った。懐かしいというより、当時の先生の言葉が自分の中にそのまま生きていることにも驚く。

 今は新型コロナウイルス感染症対策が医療の中心になっている。しかし、人間が健康に生きることを考えるには感染症対策とは全く違う観点が必要なのだ。『健康生活の原理』は活元運動の本として知られているが、人間が健康に生きる上で大切なことは何かを考える上でも非常に有益な本である。

 入手できる書店が限られていることもあって、『整体入門』などに比べると普及していないのだが、文庫になっている本よりもずっと読みやすいと思う。広くお勧めしたい一冊である。

死生観の確立

 先日、初めてクラムチャウダーを作ってみた。クラムチャウダーにはマンハッタンスタイル(トマトベース)とニューイングランドスタイル(クリームベース)があるが、ニューイングランドにした。アメリカ料理はおいしくないとよく言われるが、クラムチャウダーはおいしいと思う。

 そんなことをしていたら母から電話があり、私の90歳近い伯母が医師から「あと2週間程で亡くなるのでは」と言われていると言った。もうほとんど食べられないようで、私が母に「食べさせない方が本人は楽だよ」と言ったところ、「お父さんもそう言った」と返ってきたのが意外だった。

 父ももうすぐ手術を予定しているので、老いや死、病について思うところがあるのかもしれない。また、穏やかな死を迎える上での医療的な知識も普及してきて、死に抗うようなことを間際まで続けないという在り方がかなり受け入れられてきたということもあるだろう。

 高齢化社会から、今は大量死の時代とも言われているが、2020年に発表された厚生労働省の調査では、死因の中で「老衰」が第三位に入っている(二年連続)。

 かつては高齢者であっても死亡診断書の死因に「老衰」と書く医師は少なく、何らかの「病因」を書くのが通例だったそうで、「老衰」が増えた背景には、高齢者が増えたというより医師の意識の変化が大きいとも言われている。

 宗教と医療が分けて考えられているキリスト教圏では、死は神(宗教)の領域であり、高齢者が死を迎えることについての受け取り方も日本とは違う。

 しかし、日本では西洋医学の医療の中で、死は敗北であるかのように受け取られてきた。そうした中で、死というものの存在が肯定されるようになったのは良い傾向だと思う。

 野口晴哉は、「病症に対してどう処するか」という腹を括る重要性を折に触れて語り、今も野口整体を実践する人はそのことを自身に問い続けているものである。

 それは薬物の悪影響、痛みなどの症状を抑えることで体に残る影響、経過することで発達する体のはたらきなどを考えてのことではあるが、私は言外の目的として「死に対してどう処するか」の訓練をしているという面もあると思っている。

 病症を経過するようにしていると、だんだん「人間は死ぬ時までは生きているものなんだな」と漠然と思うようになってくるのだが、こういう積み重ねには、生きる上でも、死を迎える上でも、宗教的と言える程の意味があるのだ。

 大病や大事故などを経験した人の中にもこういう実感を持つようになる人は結構いるが、普段の小さな病症でも、経過を全うすることで実感を深めていくことができる。

 私の身体は今、親知らずがさらに表出してきており、年齢不詳の活動をしている面もあるが、老化や死の要素をはらむ面もある。また大量の細胞が死ぬ一方で、新しい細胞に置き換わっていく。

 かつて私はそれが生きているという状態だと思い、死を迎える時はその流れが止まるのだと思っていた。しかし今は、流れは止まるのではなく続いていて、死を経過することでこれまでとは違う、何か新しい状態になるのだと思うようになった。

 死生観には様々あるが、医療技術の発展とともに選択肢も増え、否が応でも死の迎え方を選ばなければならない時代が来ている。

 思えばそれは私の師が最期を迎えた時、痛感したことだった。生前、師匠は「整体指導者になるなら死生観を確立しろ」と言っていたが、その意味が今はよく分かる。そして、整体を実践する意味として人にも伝えていきたいと思っている。

違いを超えて

 先日、ある方から苺を頂いた。大きめの箱を開けると大きくて形の良いりっぱな苺が一粒ずつ並べてあって、そのつやつやした赤色が見とれてしまうほど美しかった。

 たくさんの美しい苺を眺めていたら、子どもの頃、『森は生きている』(マルシャーク 岩波書店)という物語と、その元になった東欧の民話『12のつきのおくりもの』という絵本が好きだったのを思い出した。その中に、各月を支配する精霊たちが真冬に苺摘みをさせてくれるシーンがあるのだ。

 この二つの物語では苺の季節が5月か6月とされていて、小さかった私はそれがとても不思議だった。当時は寒い国だからかな?と思っていたが、苺の本当の旬は日本でも5~6月なのだそうだ。

 しかし日本では、赤いつややかな苺は春の活気を伝えてくれる果物というイメージになっている。俳句や短歌の季語では、どの季節に入っているのか分からないけれど。

 当時好きだった児童文学と言えば、以前も書いたが、私は子どもの時ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』(大きな森シリーズ 福音館書店)が好きだった。しかしアメリカでは、この本がアメリカ史の教科書的な扱いをされることには問題があるとされていて、論争になっている。

 ローラの物語は典型的なプロテスタントの白人(アングロサクソン)家族による西部開拓という、いわばアメリカの「神話の時代」を語る物語でもあるが、マイノリティーにとってのアメリカ史とは言えず、物語に出てくる黒人やネイティブ・アメリカン(インディアン)に対するまなざしや表現も問題視されているのだ。

 日本で生まれ、日本で育った私にとっては、むしろネイティブ・アメリカン(インディアン)に対する興味を持った最初のきっかけになり、アメリカ史というよりはローラの成長物語という読み方をしていたので、大きくなってから本国アメリカでは論争的な本だと知り、意外に思ったのを憶えている。

 ただ、問題を指摘する人たちも、この本を出版禁止にしたり学校から追放したりすることで、差別や偏見がなくなるわけではないと考えているようだ。

「触れない」ことで「ないこと」にしようとする日本とは異なり、こういう論争を正面から続けることがアメリカの良識なのだろう。最近は一方的に主張する傾向が強まって、対話も論争もできなくなってきているようではあるが。

 感情移入をするだけで、自分しかない主観の世界に住んでいるのが子ども時代だとしたら、違う世界や感じ方があることを知り、いろんな主観を受け入れられるようになることが、大人になるということだろうか。

 愛されることや理解されることを求めるだけではなく、自分が愛することや理解することができるようになるというか。そこに至る過程は、いろんな道があるけれど、その上で自分の本当の心がはっきりしていて、感じたことを表現できるのが大人なのかなと思う。様々な水準はあるけれど…。

 何だか頭が働かないから、今日はここまで。アメリカの黒人詩人、ラングストン・ヒューズの短い詩を思い出したので引用しておこう。

 高校生の頃、茨木のり子編のアンソロジー『詩のこころを読む』を読んで知ったのだが、その時のショックが今も心に残っている。原文もあるけれど、何だか日本語訳の方がいいような気がしてしまう。

助言

みんな、云っとくがな、

生まれるってな、つらいし

死ぬってな、みすぼらしいよ

だから、掴まえろよ

ちっとばかし  愛するってのを

その間にな。

木島 始訳

Advice

I am telling you that birthing is hard and dying is mean.

Get your self a little loving in between birthing and dying.

男とか女とか

 あるブログで、「男は優しい女が好き」という言葉は女に対する「呪いの言葉」である…という女性の意見についての記事を読んだ。この言葉を「女は優しくあるべき」という圧として感じた、ということのようだ。

 この言葉を発した男は、そういう男ってしょうもない、というニュアンスで言ったようなのだが、もし「男は優しい女が好き」と言っちゃった男が「俺は(僕は)優しい女が好き」と一人称で言ったらまた感じ方が違っていたのではないだろうか。

 以前、鴻上尚史は子役のオーディションで面接の時に「どんな人(異性)が好きですか」と尋ねると、男の子は小学生から高校生まで、ほとんどの子が判で押したように「かわいい子」と答えると言っていた。一方女の子は年齢が進むにつれ言うことが変わっていき、多様だという。

 鴻上尚史は同性ながら男の子の「かわいい子が好き」には「成長せんのかい!」と突っ込みたくなるそうだ。先の「やさしい女」は、この「かわいい子」と通じるようなところもあり、そこはちょっと私もどうかなとは思う。

 ただ、女が「かわいい」と言う時にはあまりエロい要素?はないが、男が「かわいい」と言う時には何となくそういうニュアンスがあって、「かわいい」の意味するところには男女差があると感じる。それでいくと「やさしい」の意味も男女で違うかもしれない。

 これは私の思うことで、先の女性が当てはまるかどうか不明だが、一般に女と言うのは一般論とか常識論とか、普遍的・客観的・合理的とされる言説を信じやすい・影響されやすい傾向にある。特に男が発する言葉はそうである。

 先の女性も、女が「男ってやさしい女が好きだよね」と言ったら「そうだよねー、やだやだ」で終わったのではないだろうか。男が言うから呪いが発効?してしまうのだと思うし、この女性は男の言葉の力を認めているのだ。

 まあ、怒ったり泣いたり笑ったり、というのも人と意見を交わす場ではありうることで、そういうことが一切発生しない方がいいとも言えないだろう。そこで関係が切れないで、対話が続いていくのだとしたら、そういうことがあった方が面白いぐらいだ。良いけんか相手になれるかもしれないのだから。

 LGBTとかジェンダーについての理解が広まり、男はこうだ、女はこうだという表現は憚られるような雰囲気もあるが、そういう話ができないのも息苦しい。

 さて野口整体では、男と女は身体も感受性も全く違うと考えている。もはや野口晴哉の言葉そのままだと誤解される恐れがある位だ。人によっては「呪いの言葉」と受け取る人もあるかもしれない。

 ただ現実にはそういう面は否めないし、真実をついていると言えるのだが、どうしようもないことと考えているわけでもない。互いに大人になって、自分と違う人間の感じ方や好みを理解できるようになることが必要だと考えている。

 しかしそれは考え方や、頭で分析したり割り切ったりすることではなく、体の問題であり、愛情ややさしさの問題なのだ。これは体癖の理解においてもそうである。

「男は優しい女が好き」だとしたら、「女もやさしい男が好き」なのだ。「強くなければ、生きてはいけない。優しくなければ、生きている資格がない」というハードボイルドな台詞を思い出した。男も女も、そうありたい。

補足

この言葉って、なんだっけ?と調べたらチャンドラー『プレイバック』だった。原文が見つかったので紹介。英語はハードボイルド感が半端ない。

女性の質問に対する素寒貧探偵マーロウの返事。

“How can such a hard man be so gentle?”

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”