アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

親知らずが生えてきた!2

親知らずと現代人

 親知らずが、また動き出した。今度は左上顎。先行した右上顎はまだ半分ぐらいしか生えおらず、左の方の勢いがいい。頸椎2番に焦点があるようだ。でも頭に愉気する方が全体的な経過にはいいように思う。

 例によって「このブログにしては」という数字なのだが、親知らずについて前回書いた記事を読む人が意外といる。それにどういうわけか、私の知る限りでは、野口晴哉先生は親知らずについてあまり言及していない。

 虫歯の話(救急操法もある)はあるのになぜだろう?野口先生の時代(戦前~1970年代前半)は、今ほど親知らずが問題になっていなかったのだろうか。

野口整体を愉しむ 」というブログには、相当広範囲に野口先生の講義内容が紹介されているけれど、親知らずについての資料はなかったように思う。整体的親知らずの経過法を知りたい人が意外といるのだろうか。

(この記事を読んでくれた人で、何か御存知の方は是非ご教示ください。)

 今は「親知らずが横向きになっている」とか、いろんな問題があって、「親知らずの抜歯は修羅場だった」という話をよく聞く。理由は分からないが、下顎の親知らず抜歯は麻酔が効きにくいのだそうで、全身麻酔で行うこともあるという。

 よく顎が小さいとちゃんと生えないなどと言われるが、私の顎は視界も認めるほど小さい方だが、まっすぐ生えている。ちゃんと生えるかどうかは顎関節と骨盤の可動性の問題(顎と骨盤は連動している)で、実際に親知らずが生える時、顎の骨は動くものだ。

 正式には15才臼歯というのだから、本来ならば思春期後期までに生える歯で、骨盤が動くのと一緒に生えるのだろう。下顎の時の方が、骨盤部との関連をつよく感じた。

 前回、右顎の親知らずが生えてきた時、私は「親知らずが生えたり生えなかったりするのはなぜか」をネットで調べてみたのだが、なかなか興味深いので、紹介しよう。

歯科人類学を研究する歯科医師のHPによると、縄文人と言われる南方系モンゴロイド系は、親知らずが四本とも生える人が半数以上、弥生人と言われる中国・朝鮮半島からの渡来人(北方モンゴロイド系)の遺伝子が濃い人は、親知らずの欠損率(四本ともない、または欠損している)人が多いのだという(欠損は歯茎に潜っているのではなく、歯根がないという意味)。

 つまり、現代日本人が形成される過程で、親知らずの欠損率は高くなっていったのだが、戦後、親知らずが生える人が増加傾向にあるのだそうで、なぜこれまでの過程に逆行するような現象が起こっているのか、理由はまだ分からないという。それと同じ時期に変化しているのは高身長化と性成熟の速さ(第二次性徴の早期化)なのだそうだ。

 でも、親知らずがある人が増えても、きちんと生える人は少なくて、修羅場になるケースが多いというのは、あまり良い傾向とは言えない。少なくとも「野性を取り戻している」などとは言えないだろう。

 野口先生は親知らずのことは言っていないけれど、大脳が偏って発達することで体が鈍くなると「体が野蛮化する」という問題は指摘していて、その例として戦後の初潮年齢の早期化を挙げている。「体が野蛮化する」というのは、脳と体の統制が乱れる、体から人間的な特性が失われる、ということだ。

 皮膚感覚が鈍くなる、姿勢の乱れ(姿勢制御の神経系と深層筋の退化や未発達)のもそういう傾向の表れかと思う。

 親知らずの問題は、体の発達のアンバランスと鈍りという、意外と深い問題にかかわっているのだろうか。

 

見ることと、世界とのつながり

ある女性写真家の思い出、これで最後。 

 最近、続けて書いているけれど、どうもこのところ、何年も前に亡くなった女性写真家のことを思い出してしまう。彼女にとって、写真を撮るとはどういうことだったのだろう?

 彼女は生前、いろんな人から「海外で仕事をした方が活躍できる、才能を活かせる」とよく言われたそうだ。しかし、本人は「私は西洋的な個の確立というのができない、自分にはそういう強さがない」と言っていた。

 彼女の育った家は医師の家系で、曽祖父は藩医、祖父は明治時代にドイツに国費留学し軍医をしていたという。父も医師で、戦前に国費留学したそうだ。本当に森 鴎外さながらの家柄で、彼女はお手伝いさんに「様」づけで呼ばれて育った、真のお嬢様だった。

 学生の頃はジャーナリズムにも関心があって、左翼的な学生のグループにも近づいたことがあったが、家に帰ってお手伝いさんに「○○様」と呼ばれた時、「自分にはこの思想は無理だ」と思ったそうだ。 彼女の実家は、戦前は近代という時代の先端を行っていたのに、戦後は旧態依然、前時代的になってしまったのだ。

 こういう「古さ」を引きずっている彼女と、彼女の使う古い戦前のカメラは、どこかつながっているようにも思う。

 母親と姉妹は自分とは全く違うタイプだが、父親は「ほんとは作家になりたかった」というような人だったそうで、小さい時から理解者だったという。彼女が写真を始める時も「やりたいことをやりなさい」と言ってくれたそうだ。

 私が彼女と出会った頃は、もうすでに父上は亡くなったとのことだったが、今思うと、彼女にも意識できない深いところで、父の死が影響していたような気がする。

 それから、彼女が使っていた、あの古い大きなカメラ。あの古いカメラで現代の人や風景を撮っていた。私は正直に言うと、彼女の写真集を最初に見た時、何て寂しい、虚無的な写真かと思った。

 しかし整体の師匠が亡くなった後、自分の見ている世界が彼女の撮った写真に似ていることに気づいた。その頃私は、自分の時間が止まっていて、周りの人と環境とのつながりが感じられなくなっていたのだが、その時に見えた風景が彼女の撮った風景に似ていたのだった。

 当時は、自分もすぐ死ぬような気がしていたのだが、それは私が医師と直に先生の延命措置や治療を断る話をしたこと、そして死のショックとともに、周囲と共有できない感情を内攻させたことが原因だった。

 私の場合は、感情が流れ出し、体が動き出して、泣きたいだけ泣けるようになってからは、もう景色がそういう風には見えることはなくなった。

 でも彼女は、父が死んでから、世界がずっとそういう風に見えていたのではなかったか。彼女はそれを作品世界として表現し、写真は今、ミュージアム・ピースにもなっている。しかし彼女は、今の自分の写真を超えたいと言っていた。

 今、世界と自分との関係性、つながりが見えないという苦しみや、自分の存在に虚無感を感じている人は多く、彼女の写真の中の世界は、そういう人の見ている世界と重なるのかもしれない。

 ただ、私が彼女に出会った当時の、彼女の心と体の状況には、父の死が深く関わっているとしても、彼女の作品世界はそれだけに集約できるものではない。でも、現代的でドライな印象だけではなく、彼女に痛みがあったことも知ってほしいと思い、書いてみた。

 そういえば、もうすぐお盆。亡くなった人のことを思い出す時期なのだろうか。

冷え対策と熟睡のための蒲団乾燥機

機械的?整体生活のすすめ 

 このところ、読んでいるブログに、偶然、知人の女性写真家の名前が出てきたことを書いたが、先日は自身の「冷え性」について書いていた。

 偶然は重なるもので、実はこの女性写真家にも、体の問題として「冷え」があった。彼女は野口整体を始める前、温熱療法というのをやっていたが、それは冷えがきっかけだった。「手がかじかんでシャッターが遅れてしまうぐらいだった」と言っていた。彼女のカメラは戦前の、重箱みたいに大きなカメラだったから、大変だっただろう。

 梅雨や秋口など湿度が高く涼しい日が続いた時などの汗が出にくい時、また暑い中から急に涼しい所に入って、汗が引っ込んでしまう時。また睡眠中やエアコンの風が当たった時(特に背中)に、冷えが入り込む(体温が上げて恒常性を維持することができなくなる)ということはある。こういう時は体も硬くなるものだ。

 しかし、このブログの書き手も、知人の女性写真家も、そういう急性症状的・気温や季節の問題より、頭の緊張が続いている・脳が休まらないことによるものが大きいように思う。

(カメラというのは、眼と脳の機能を特化し、機械化したものと言えるが、体の機能をそうやって延長させていっただけに、撮影するという行為、撮った内容を作品にする行為というのは、脳と神経系に普通以上の負担をかけるのかもしれない。)

 今、冷えの問題というのは深刻化していて、冷え対策「温活」の市場規模は2000億円という。しかし、多くの場合はストレスが絡んでいて、保温・加温だけでは改善が難しく、睡眠の質の低下と一つであることが多い。冷やごはんではあるまいし、やっぱり人間は自ら熱を発し、恒常性を保つのが自然だと思う。

 冷えのための整体法(足湯など)もあり、すでに野口整体関連の本で紹介されているのでそれを当たってほしいとも思うが、どんなことが適うかは体を観ないと何とも言えない。それに、野口整体が焦点を当てているポイントが分からないまま、他の手当て法と同じようなつもりで行ってもあまりうまくいかないことが多い。

 そこで、お勧めしたいのがこちら!と、テレビの通販番組のように私が推すのは蒲団乾燥機の積極的活用だ。これは野口整体に関心がある人、ない人、万人向けに知ってほしいことなので紹介したい。

蒲団と枕を乾かせ

神経の麻痺するを防ぎ

神経の活力を喚起す

(『野口晴哉著作全集第一巻』昭和5年

  これは、野口晴哉が二十歳頃に書いた全生訓の冒頭だが、私はこれを初めて読んだ時、「蒲団を干すのってそんなに大事なのかな」と、あまりしかとは受け止めなかった。

 しかし、私の師匠はこれを実践しており、ベッドだったため、毎日蒲団乾燥機を使っていた。その後、先生から布団乾燥機のお下がりを貰い、私も実践するようになったが、その効果は想像以上のものだった。始めたのが冬だったせいもあるが、本当に眠りが深くなる。

 寝具に湿気があると、呼吸がしにくくなるし、そうなると自ずと神経は鎮まらないものだ。今のように暑い時期でも、毎日、蒲団を乾かすことは大切にしてほしい。なんとかクラスターとか、イオンとかが出るのは好みでよい(どうでもいい)が、温風も普通の送風もできる方がいいかもしれない。

 寝つきが悪い、眠りが浅いという人のみならず、冷え性の人にも、ぜひ眠る前の習慣として、蒲団乾燥機の導入をお勧めする。

 

死についての学び

 前回、自死をすると、死後、苦しむことになるという霊的、宗教的な教えは信じられない、と書いたが、その後、若い俳優の自死が報じられた。

 それで、私の今の気持ちとしてもう少し補足してみると、事故死や病死などは仕方がないが、自死は罪深いとか、そういう区別が理解できないということだ。

 前回書いた知人の女性写真家の自死を知った時、私は「一人ではないと思ってもらうことぐらいはできたのではないか」と思い、それがやはり辛かった。

 整体の師匠が亡くなる半年前、「このままでは死ぬ」と思った時は、私より能力のある人に指導をお願いできないかと思ったし、亡くなった時は、「生きることよりも死を選んだのではないか」という思いと、何かの折に不意に襲ってくる「あの時、なぜこうしなかったのだろう」「あんなことを言うのは間違っていた」という思いに苦しんだ。

 でも今、私は、人が死ぬことには誰も介入できないのだと思う。野口晴哉師は、病院で見放された人でも治してしまうので、神技と言われていたが、弟子の臼井栄子先生(確かそうだったと思う)は、「(治療技術がすごいというより)野口先生は、死ぬ人には最初から手を着けないのだ」と言ったそうだ。

 それは、私の師匠が若い時に自分の手に負えないがんの患者を野口先生の下に連れて行った時の話で、野口先生にぼそっと「…○○君(先生の名前)は何をやっているのかな」と言われ、凍り付いた…と言っていた。その後、その人は20年ぐらい生きて、がんが消えて無くなったかどうかは分からないが、普通に長生きだったという。

 確かに野口先生は、子どもの時。病人が死ぬ方向にあるか、生きる方向にあるかを観てとることからこの仕事を始めたと言う。その後も観察の着手はいつもそこにあったし、そういう生死についての真剣さと注意力、敏感さ(勘)は、この仕事には必要不可欠なことだ。

 そういう野口先生でも、多くの人の死は自殺であり、寿命を全うする人は少ないと言う(先生に言わせれば、もっと生きられるはずの人が死んでいるという意で、死の要求が出てきた時に人は死ぬという観方がある)。

 ちょっと話がそれたが、死というのは価値判断や他者の介入を許さない厳粛で非情なものであって、多くの場合、その人が死の方向を向いたらどうにもならないのではないだろうか。

 自分の死は一度きりでも、まだ自分の身に死が近づいている実感がなくても、他者の死は生きている間に何度か経験する。大切な人の死にあったら、心の中でその人に話しかけたり、疑問があったら尋ねてみる、ということをやると良い。いろんな形で、答えは返ってくるものだ。

そして、死者の視点を心の中に持つことが、大切だと思う。この、死者が生きている自分たちを見ている目というのは、キリスト教的な人間から隔絶した神の視点とは全く違う。けれども本当の自分、裸の心をじっと見ている眼だ。怖いようだが、私の中では、この死者の目が大きな支えになっている。

 こうして、体験を深めていくことが、生きている時の死についての学びなのだと思う。

 

 

見るものと見られるもの

ある女性写真家の自己実現 

 先日、何となく好きで読んでいるブログ(野口整体とは無関係)に、唐突に知人の写真家(故人)の名前が出てきて、驚いた。でもそれは、その人の写真がどれほど高い評価を受けていたか、名が通っていたかを、私がちゃんと理解していなかったせいで、写真の世界では別に普通のことなのかもしれない。

 私は彼女と会う以前から、ロバート・キャパセバスチャン・サルガドなどの写真が好きだった。落合陽一氏的には「エモい」とか言うのかもしれないが、時を捉える冷静さと感情の両方が感じられる写真が好きだったのだ。

 その女性写真家は、私の師匠の整体指導を受けていて、ちょうど私が入門したのと同じ時期に「プロ志向なしの塾生」になり、一緒に整体の勉強をしていた時期があった。

 彼女はたしか30代終わりぐらいまで、某有名出版社の編集者をしていて、ファッション誌の編集長にもなった。その後、ある有名ブランドのデザイナーに才能を見出され、その専属となったと聞いた。そのブランドは日本語にすると「少年のように」という意味だったが、彼女自身、そんなふうに見える人だった。

 他の塾生と、あるトラブルがあって、指導に来なくなったのだが、先生とはときおりやり取りがあった。

 実際に私が彼女と接したのはほんの短い間で、半年ぐらいのことだったと思う。私はこの人から編集の基本のきから教わって、先生の原稿書きを手伝うようになった。こうした縁もあり、私は彼女に興味津々だったので、仕事や自身についての内面的な話も、先生と一緒に聞いたり、二人だけで聞くこともあった。

 私はこのブログに亡くなった人のことを書くことが多いが、彼女の死は、自死であったという。亡くなったと知って、私はこの人が大好きだったことにやっと気づいた。なぜもっと親しくならなかったのだろうと後悔した。そして私も、今、この人が亡くなった時と同じぐらいの年齢になった。

 このブログにも少し書いたことがあるけれど、ずっと若い時に影響を受けた陶芸家も自死だった。だから私は、良いことだとは思わないけれど、自死をすると、地獄の苦しみを味わうなどという宗教的・スピリチュアル的言説はあまり信じられない。

 まあ、それはともかく、彼女がこれまで出会った人の中でも特に印象深い人であったことは確かだ。私が彼女に出会った頃、彼女は精神的な危機の中にいて、それを何とか経過しようとしていた。

 彼女のような人には、中年期になると、個人的・内面的問題と、表現という外に向っての創作活動の行き詰まりがいっぺんに、共時的に起こってしまう時期があって、「創造の病」とも言うべき状態に陥ってしまうのだと思う。

 それを超えるために、彼女は野口整体の「腰」というものに着目していた。腰によって、分裂した何か(内的・外的両方で)を統合し、自分と対象を一つにすることができると考えていたのだろう。彼女の中には対象と一体化する要求というか、「自他一如」という身体性と、冷徹な客観が同時にあった。もう少し、整体指導を続けていたら…と思わずにはいられない。

 指導の中で「天衣無縫は美ではない」という野口晴哉の言葉を説かれて、はっとしていた彼女の瑞々しさが懐かしい。

 彼女から聞いた話で今でもよく覚えているのは、弟子志望のアシスタントを辞めさせた時の話だ。彼女がその若い男のアシスタントに求めたことは「私と同じものを見なさい」ということだったと言う。

 しかし、その彼にはそれができない、意味が分からなかったのだそうだ。それは写真家として致命的なことなんだ、と彼女は言った。写真を見て感動するのは、写真を媒体として、撮った人のその時の心に共鳴するからなのだ。

 そして私の師匠はそれを聞いて、「そうだ、その通り。整体の観察でもそうだ。同じものを見る、っていうことができないんだ」と言った。初学びの私は、それを深く心に刻んで、先生と同じものを見よう、と決め、それを修行の中心にした。それは今でも変わらない。

「同じものを見る」というのは、「同じ心の状態になる」というのと同じで、彼女は「スチール写真が好きだ」と言っていたが、同じ被写体でも見ようとしている心の角度が違えば、同じものを見ていることにはならないのだ。 

 彼女はもう、この世にはいないけれど、写真は今でも見ることができる。対象と一体になろうとする彼女の集注力、「同じものを見て」という彼女の思いが、今も写真の中には残っている。

発達障害を考える

 最近、「発達障害」という言葉が一般に知られるようになってきたが、最近その発生率は増加傾向にあるといわれている。

 子どもの発達というのは全体が均等に発達するのではなく、身体的には運動系・中枢神経系・皮膚・内臓、心理的にも社会性や認知的能力というように、年齢的に、またその子独自の系統的なピークを持っている。

 だから、その時々に発達の滞りがあれば、それが「発達障害」として残るし、広範に言えばほぼすべての人に、何らかの「発達障害」があると言える。

 また、子どものある時点だけを見て、「発達障害」と断定し、その後変化していく可能性が見えなくなることもあるかと思う。

 子どもはことに変化が大きく、正常と異常の区分が特に難しいとは思うが、一時的に問題があっても乗り超えられれば「正常」で、乗り超えられなければ「障害」、と私は考えている。その乗り超える力に先天的な障害があることが、障害児ということなのだと思う。

 前置きが長くなったが、私の姪(小学生)には発達障害があり、現在、特別支援学級に通っている。私はこの子から多くを学び、心の中に降りていく通路を開くという面では、この子の存在によって、一段「底が抜けた」ように思う。

 お母さんという立場にある人にはやや厳しい内容になるかもしれないが、この子の出生からのことをきれいごと抜きに書いてみたい。また、これは全く個別のケースであって、一般化はしないようにお願いしたい。

 

 姪が嫂のお腹に宿ったのは、私に整体の観察をする眼がぼちぼちできてきた頃のことだった。よい知らせではあったが、その3、4か月前に流産したと聞いていたので、私は「まだ早いのでは」という不安がよぎった。

 当時、40代で乳がんのステージ4という人が師匠の指導に通い始め、私は彼女と親しく話をする間柄になり、彼女は間もなく妊娠したのだった。

 言葉は悪いが、妊娠というのは得体が知れないところがあって、健康だから妊娠するというわけではない。その人の場合、初期に胎児の心音が聴こえなくなっても、母体の骨盤の力がないために流れることもなかった(病院で掻爬した)。

 しかし、本人にとって、その子は最後の希望の光だったので、そのショックは周囲の想像と本人の意識をはるかに超えていて、彼女は混乱し、指導にも来なくなったのだった。そんな辛い出来事の後で、私は余計に不安を感じたのかもしれない。

 しかし、お祝いに家族で集まって食事をすることになって、食事の後、ふと嫂の後ろ姿を見た時、私は愕然とした。嫂と言っても私より若い彼女が、妊娠しているのにも関わらず腰が下がっていたのだった。流産から体(骨盤)が戻っていないのが一目瞭然だった。

 妊娠の経過も思わしくなく、早く生まれた後、ガラス越しに新生児室にいる姪を見た。弱々しい、というのが第一印象で、赤ん坊特有の、全身から発する光のようなものがなかった。あれは赤ん坊が自分に注意を集めようとする気なのだと思うが、それが弱かったのだ。

 私はそれ以前にも、第一子は師匠の個人指導を受けたが、第二子は個人指導を受けずに妊娠・出産した女性が新生児を連れてきた時に、姪が生まれた直後と同じことを感じたことがある。その後、保育園に入り、その子は自閉症であることが分かった。

 その後、一歳になる少し前に姪に再会した時もそれは変わらず、反応が弱かった。そして、私の母からお座りが早くからできるようになった、歯が早くに生えたという話を聞いた。

 整体では歯が早く生えることを注意するけれど、それは一般に思われている以上の意味がある。

 姪は股関節の発達が遅く、二才ぐらいまで歩けなかったが、その他の面でも指摘されることがあり、こども病院で検査を受けることになった。

 そこで分かったことは遺伝子異常と脳圧の問題だった。そして保育園で発達の遅れが指摘され、言葉の訓練なども受けるようになった。

 気づくのが早かった私は、検査を受ける前、兄と電話で姪のことで言い争い、検査の後の対応も部分的でピントがずれているように思え、そのことで自分の両親ともしっくりいかなくなった時がある。

 フェルデンクライスに学び、動きから脳のはたらきを変える発達障害の子どものための身体技法を開発したアナット・バニエルは、発達障害の子を「Special Needs(特別な支援を必要としている子)」と呼ぶ。

 その子が何を必要としているのかを理解することは、すべての子どもに必要なことで、発達の遅れが見えたら一日も早くそれに応えなければならない。

 しかし両親、また両祖父母が心から発達障害を受け入れ、理解するというのは、「言うは易く行うは難し」という言葉そのものだということも、私は身を以て思い知られることになった。

  また、野口先生は、両親、祖父母を含めた潜在意識の問題を説く一方、子どもが生まれることには、個人を超えた宇宙の意志がはたらいているとも言う。私は姪を通じて、それは別々のことではなく、つながっていることなのだと知った。

 長くなったが、すべての子どもとお母さんにとって、妊娠と出産、子育ては幸せな時間であってほしい。整体の智慧がそれに役立つことを願ってやまない。

(補)哺乳類の育児行動は、子どものにおいや動き、反応など、子ども側が発する感覚刺激によって促される面があり、子どもの反応が弱いと育児行動が十分に促されず、母親が仔を食べたり放棄したりすることもある。人間にもそういう面があり、子どもが持っている注意を集める力、また要求がはっきりしていることは、母親のマザーリングを促し、安心感や充足感を母子で共有することにつながる。

 

50代を長くする

ゲゲゲの世界 

 数日前、水木しげるの『古代出雲』(角川書店)という漫画を読んだ。やっぱり期待を裏切らない面白さだった。私は、あまり人に話したことがないけれど、じつは私は子どもの時から水木しげるの漫画が大好きで、霊界への入り口がないかと探したり、空想したりしていた(変な子ども…)。

幻視をリアルに表現したような、濃密な自然界を描いた背景、霊魂や妖怪と人間の関係などに、相当深い影響を受けていると思う。

 水木しげるは娘に「手塚先生の漫画は夢がある。でもお父ちゃんの漫画は夢がない。」と言われ、「バカヤロー、俺は現実を書いているんだ!」と言ったそうで、あの世界観は水木しげるに観えている現実なのだ。

 まあ、水木しげる野口整体はつながりが全くないが、漫画つながりで言うと、以前、野口晴哉先生の、白土三平にはまった小学生の話を月刊全生で読んだことがある。

 ある時、野口先生は、母親から「小学生の息子が漫画ばかり読んで勉強もせず夜更かししている」という相談を受け、その子に「君、漫画ばっかり読んでるの?」と言った。するとその子は「先生、読んだことあるの?漫画は面白いよ、勉強はつまらない」と答えたという。

 そこで野口先生は、その子がはまっている白土三平を読んでみたところ、本当に面白くて、お母さんの読む三文小説よりずっといい内容であることが分かった、という話だ。その後、その子にどういう指導をしたのかは忘れたが、漫画浸りではなくなったようだ。

 あの野口先生が、子どもに反論されて実際に漫画を読んだことにも感心したが、その後、古い月刊全生を見ていたら、おそらく白土三平の御家族の方が『カムイ伝』を寄付したことが載っていて、それにもびっくりした。

 野口先生本人は、15才で道場を開くという天才であった故に、子どもの時間が短くなってしまったことは否めない。現役生活は普通の人よりもずっと長いし、仕事と時間の密度は計り知れないが、60代で亡くなったのは、子どもの時間が短かったこともあるかもしれない。

 野口先生は晩年、日本が長寿社会に入った頃、長く健康を保つためには「50代を長くする」ことが大切だと言っている。

 50代なんて言うと、もう晩年気分で終活のことまで考え始める人がいるが、それは確実に30代とは違う体の変化を実感するからかもしれない。

 でも、一生が長丁場となってきた今は、20歳に成人式があるのと同じように、発達段階として50歳を考える必要があるのではないかと思う。

 それは、実社会に入る20歳の成人式とは違う、もっと精神的な意味の発達、もっと言うと死や霊性といった世界に接近するための、心の準備段階だ。

 私自身の体を考えても、生物的には(つまり♀的には)老いてきたと思うけれど、体の構成物質が変わりつつあるような気がする。物質的な成分でできていた体が、気というか、もっと透過性のある素材に変わっていくような感じだ。それは死に近づくということなのかもしれないが、これから必要な体の変化なのだと思う。

 つまり、いつまでも若い時と同じように運動したり、頭を使ったりするのが元気とか健康なのではなく、違う健康生活がある、それが50代から始まるということではないだろうか。

 水木しげるは、『古代出雲』を書いた理由として、60歳ぐらいから古代人らしい若者が夢にしばしば出てきて、滅ぼされた古代出雲人の無念をわかってほしい、古代出雲のことを描いてくれと頼まれたからだといっている。

 体があって、この世を生きている人間にしか、この世での仕事はなしえないので、体をもたない古代の霊がそれを訴えに来たのだ。

 水木しげるは20代からその気が大いにある人なので、一般化はできないが、40代でやっと売れっ子漫画家になった頃には「妖怪いそがし」に取りつかれて、漫画量産に追われていた忙しい時代もあった。しかし49~51歳で、「妖怪いそがし」と縁を切り、仕事をセーブするようにしたという。

 日本の霊とか魂の世界というのは「思い」の世界で、心の世界が深まっていなければその声は聴こえない。本当に、潜在意識の世界が霊の世界とつながっていて、霊の思いを生きている人間が受け取ることが、死者の霊を慰めるということなのだと思う。

 だから、思いを受け止め、理解することができるようになるというのが、50歳で目指す発達段階なのではないだろうか。そういう心と体を生きている間維持することが、50代からの健康生活に必要なのだと思う。若い時も、年をとっても、自分中心になってしまうのが人間なのだけれど、きっと野口先生は、15歳の時からずっとそうしてきたのだ。私の師匠の修行も、そういうことだった。

 なんだか不思議なことを、とりとめもなく、思わず書いてしまったが、もうすぐ夏だということで?ご勘弁いただきたい。

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妖怪いそがし(水木しげる)人間がこの妖怪に憑依されると、やたらに落ち着きがなくなる。しかし不快な気分ではなく、忙しく動き回ることで、なぜか安心感に浸ることができ、逆におとなしくしていると、 何か悪さをしているような気持ちになってしまう。