アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

子どものつぶやき

 前回「おっぱいとおへそ」を書いたのは、窓を開けたら、偶然、小学生の男の子の「あー、おれ、保育園戻りてえよ。」という大きなつぶやきを聴いたのがきっかけだった。

 思わず笑ってしまったが、自分が書いたおっぱいとおへその愉気の文章をふと思い返し、人間はまずおへそから分離し、その次は離乳して、個体化していくんだなと思った。それで、あれを書いたのだった。

 でも、彼の「あー、おれ、保育園戻りてえよ。」というつぶやき(tweetっていうのかな?)には、どんな理由があったのだろうか。

 過去に戻りたいというのは、今、何か不適応な状況がある、ということなのだろうが、2020年に子ども・思春期時代の只中にある人は、かつてない体験を、大人の判断でいやおうなしにさせられてしまった。

 外出自粛期間中、中高生が一人でランニングしているのをよく見かけた。最初は、近所のスポーツ強豪校の男子生徒だと思ったが、そういう子だけではなく、女の子たちまでも走っていた。思春期の子にとって、走るというのは、抑圧から自分を解放するための特別な意味があるのだろう。みんなの思春期エネルギーが、切なくもいとおしかった。

 日本の小児科学会は、感染抑止のための長期休校に反対表明を出したという。最初の彼のつぶやきが新型コロナウイルス絡みではないといいなあ。

 

おっぱいとおへそ

乳房とお臍の愉気

 最近、乳房とお臍の愉気についての文章をこのブログとは別のところで書いた。乳房の愉気はもちろん女性向けで、授乳期に乳腺が痛む時に行われるものだが、普段からこの乳房の愉気を行うことをお勧めする…という内容。

 女性にとっての乳房(解剖学的に、読みはにゅうぼうで)というのは、子どもの頃のある日突然、自分のコントロール外で大きくなりはじめ、後々まで大きいだの小さいだの、同性、異性両方からいろんな価値評価を下されるという微妙な部分だ。そういう意味では男性の…に共通したところがあるような気がするが、この辺にしておこう。

授乳にしても子どもが飲むのであって、自分が飲むわけではないし、体の一部としては、わりと客観的というか、対象化された存在として感じることも多いのではないかと思う。

 著名なハリウッド女優が、ゲノム解析の結果、乳がんになる可能性が高いということで、がんになる前に乳房切除し再建手術をしたというニュースを読んだことがあるが、そういう感覚の延長線上にあるのかもしれない。私には想像するしかない感覚ではあるが。

 ただ、女性特有の臓器というのは、切らなくてもいい場合であっても切除を勧められる傾向があるのは気になるし、多くの女性がそういうことに受け身であるのはさらに気になる。

以前、個人指導に来た軽度の卵巣脳腫がある女性が、医師から「もう必要ない臓器だから」と切除を勧められたと落ち込んでいた。彼女は閉経しているけれど、「必要ない臓器」は言いすぎだと思う。

 やはり卵巣嚢腫が見つかった他の女性は、夫に「医師から、もう必要ないからと切除を勧められた」と言ったら、夫が激怒し、医師に「お前の○○も使わないんなら取っちまえ!」と言い返した…という話を聞いたことがあるが、これは感情的な問題だけではなくて、医療的にはその方ががん化の可能性が少ないとしても、臓器として揃っていること、開腹しないことは健康に生きる上で大きな相違につながるのだ。

 話はそれたが、乳房というのは、月経や排卵時、また感情的な抑圧があって胸が硬くなった時、痛んだり張ったりと緊張と弛緩のリズムが明瞭に表れるところでもある。

 見られるものとして対象化されやすい乳房ではあるが、自分で触れて状態を確かめることは、乳がんという問題とは別に、独立した大人としての身体意識、体との関係性を育てる上で大切なことだと思う。

また、この愉気によって胸椎部が広範囲に弛むので、やってみてほしい。

 それからお臍だが、これはかつて命綱であるへその緒があったところだ。お臍の愉気は、母体から分離してまだ日が浅い、赤ちゃんや子どもの病症経過を手伝う時に行う愉気法として知られている。

野口先生は赤ちゃんの活元運動誘導にも勧めていて、私も眠っている二歳ちかくの子(やや大きい赤ちゃん)にやってみたことがある。

 その時、眠りが浅かったこともあり、その子は寝たまま活発に活元運動をして、治まったらすーっと呼吸が深くなり、熟睡に入っていった。最初に手が行って、異常感があったのは肝臓のある位置だったが、活元運動はお臍がいいようだ。

 大人にとっても、お臍は内臓の状態を表現し、お臍の愉気でぎっくり腰が良くなることもある。大人には鳩尾の愉気が勧められることが多いように思うが、私は「自分の中のこどもに手を当てる」という意味も含め、お臍の愉気も併せて勧めたい。でも、大人の活元運動の誘導は、頭の愉気の方がいいかもしれない。

 人間は、面倒を見てもらうよりほかない状態で生まれてきて、ほかの動物より独立するのに時間がかかるし、脳と体、全体がバランスよく、滞りなく発達するのも難しいし、大人とはどういうことかの定義も、時代によって変化する。

 でも、自分で自分の感情を鎮めて落ちつくことができること(対人関係のためというより健康を保つために)、自分の体のめんどうを自分で見ることができること、は基本要件と言える。それから、闘い、行動する勇気を持つこと、自分と違う他者の存在を受け入れることかな。しかし、最初の二つができない人のなんと多いことだろう。

 自分に対する愉気はそのための修行であり、全体的な成長から取り残された発達の滞りを、成長させていくこともできる。

 愉気法と言うと、人にやってあげたいという人が多いが、その前に自分の心と体に手を当ててみてほしい。

 今回、ちょっとオトナ向けだったかな…。

補足

 乳房の愉気は、右側は左手、左側は右手で脇から少し持ち上げるようにすると良い。

「理解されたい」という思い、表現、そして「対話の要求」

対話の要求

 先日、やり取りをするようになった編集者の人に「活元運動の動画を見せてほしい」と言われ、えーっ!と思ったが、私は思い切って自分の活元運動を撮ってみることにした。

 それで誰かにカメラを借りようと思ったら、なんと動画の撮れる一眼レフカメラをただで貰うという運びになって、もうやるしかないと思い、見てもらうことになった。

 最近、YOU TUBEなどでも活元運動の動画をupしている人がいるが、私はやったことのない一般の人に、「活元運動はこういうものだ」という固定観念を植え付けるだけで、良いと思ったことはない。

 石原慎太郎氏は活元運動の実践者だが、「夫婦の間でも見せるものではない」と自著で言っていて、私も活元会や個人指導という場以外では、そういう感覚の方がまともではないかと思っていた。だから私が活元運動を自撮りして人に見せるなんて青天の霹靂なのだ。

 そして、簡単にメールで説明をつけて、動画を見てもらったのだが、この説明が意外なほど反応がよく、なるほどー!と言ってくれた。

 今、温めている企画のたまごがあって、それが実現するかどうかはまだ分からないのだが、私は「理解された」ことがひどく感慨深かった。

 活元運動というと、実践している人であっても、一般に「理解されない」と思う人が多いのではないかと思う。実際、野口整体に関心を持つ人であっても、活元運動がハードルになって深入りしない人も多い。

 私は普段から、「野口整体をやる人とやらない人の違いとはどういう所にあるのだろう」と思うことが多かったが、ことに新型コロナウイルスパンデミックがあってから、それが溝というか見えない壁があるかのように感じるようになっていた。

 それが、「理解された」ことで、一気に霧が晴れたような気持になったのだった。

 

 そんなことがあった後、、ジョン・レノンのソロアルバムを聴いていたら、昔から好きな二曲(Isolation・Real Love)の中に「I don’t expect you to understand(理解されることは期待していない)」という同じ言葉が入っていることに、今頃になって気づいた。

 これがジョン・レノンのよく言った言葉なのかどうかは分からない。でも、「理解されたい」という気持ちがあるから、このように言うのだろう。ジョン・レノンでもこういう気持ちがあったんだな…とつくづく思うとともに、表現の原動力というのはこういうものなのかもしれない、と思った。

 他者に理解されたい、と同時に、自分でもとらえきれない自分を理解したい、という気持ちの両方があるのだろう。私がこんな私的なブログを書いているのも、きっとそういう気持ちがあるからで、ことに私はそういう要求が強いのではないかと思う。だから理解されないということが、ごく小さい時から不満だった。

 体癖で言うと、開閉型9種というのはそういう感受性が強いと言われる(ジョン・レノンは違うと思うが、成育歴によってはそうなる)。野口先生も、もちろん両親などには理解されなかっただろうし、私の整体の師匠もそうだった。私にもこの困った体癖があって、理解されないことに孤立を感じるし、愛するということは理解することなのだと思っている。でもそれは、体癖以前にある、人間の要求でもある。

 私の整体の師匠は、ことに「自分は理解されない」という思いの強い人で、実際、整体協会の中でもそうだったようだ。整体指導者になる4段位の試験でも、まだ若かったこともあり、野口先生と臼井栄子先生だけが認めてくれたとのことだった。

 野口先生が亡くなった後は一人で自分の個人指導を深めていって、それを本に書いたのだが、先生は「自分が変わったのは思ってもみないほど多くの人に理解されたからだった」と言っていた。

「理解されたい」という気持ち、「理解されない」ことに対する不満。それは、人間には「対話の要求」があるからだ、と野口先生は言った。注意の要求というのもあるが、対話の要求はもう少し人間ならではの要求ではないだろうか。

 自分が心から大切だと思っているものに理解が得られるということは、本当に、自分を変え、世界を変えるぐらいの力があることなんだな…とつくづく思った。

 

自分が変われば世界は変わる

自分が変われば世界は変わる

人間は楽々悠々生きていることが自然だ。

むずかしいことを敢えてやりたくなり、苦しいことを敢えて耐える時は、そのことをその要求するが如く行なえ。苦しいこと、むずかしいことに取り組んでいる中にも、快があることを見出すに相違ない。

いつどんな時に於ても、楽々悠々息していることが、人間の自然というものだ。

 

苦しんでいることと、楽しんでいることは違う。

だから、苦しいことを楽しむなんて無理だという人がある。

しかし、雪の山道を重荷を負うて登ることは苦しいが、その雪の山道を楽しんで登る人もある。

その人々は重いスキーの道具を軽々と肩にしてゆく。

だから苦しい楽しいは心にある。

 

働かされることは辛いが、働いていることは楽しい。

だから働かされているつもりにならないで、自発的に働くことが肝腎である。

冷たい水でも、浴びせられれば風邪をひくが、自発的に浴びれば風邪をひかない。

めしでも食えなければ餓死するが、食わなければ断食して、丈夫になる。

 

まず自分から動くことだ。自分から出発することだ。

しかしその意欲も、背骨が弱いと生じない。

脊髄へ息を通すと自発的に動きだし、世界は為に一新する。

この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも楽々悠々息しつづけよう。

そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹きすぎる。

雪は白く、空は蒼い。

黒い雲のむこうはいつも蒼い。

 

世界が変わったのではない。自分が変わったのである。

自分が変われば世界は変わる。

自分の世界の中心はあく迄も自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。

自分がこの心を持ちつづける限り、この世はいささかも変わらない。

なんと楽しいことではないか。

自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。

人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。いつも活き活きしている。

大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。

 

野口晴哉

『風声明語』(全生社)より

免疫系の自然と、病症の経過ー新型コロナウイルスを通して学んだこと

免疫系の自然と病症の経過

 最近、ちょっと書いては捨て…ということばかりやっていたのだが、本ブログの「感染症と時代―新型コロナウイルスの意味すること」と一連の新型コロナウイルスつながりの記事を読む人が意外と多くなっていることに気づいた。

 多いと言っても「バズった」などという数字では全くなく、このブログとしてはという意味なのだが、今のように人間という種と世界全体が病んでいるかのような時には、なぜ、今、この時にこのような事態が起きたのか、それは自分にとってどんな意味があるのか、という問いがなぜか湧いてくる。

 そして理解することで、自分の置かれている状況に主体的にコミットし、適応していこうとするのが、人間という生き物なのだろう。

 今、covid-19は無症状感染者が現在分かっている感染者数よりもはるかに多いこと、劇症化する場合は、ウイルスの害毒というより、免疫系の過剰反応によることが多いということがわかってきている。様々な理由で免疫系が正常性を失っている人が多いことが、問題を大きく、複雑にしているのだろう。

 私はこれから健康を考える上で、野口整体を伝えていく上で、「病症を経過する」ことを伝えていくのが、最も大切なだと痛感している。野口先生が晩年尽力したのも病症についての正しい教育で、私の師も「病症の経過は野口整体の最も革新的なところで、他のどこにもない」と言っていたが、この新型コロナウイルス騒動で、あらためてそれを再認識することになった。

 それで、免疫系の勉強をしていたのだが、熊本大学の免疫学教室のHPでちょっと驚くようなことが書かれていた。それは「麻疹ウイルスの感染後に、がん(白血病など)の病態が回復したという報告がある」というものだ。

 私の師匠は50代の時、あることで心の打撲を負い、仙椎四番の左に穴が開いた様になって、それまでのように腰の力が使えなくなってしまった。

 頭の緊張が弛みにくいこと、この弛みのために下痢が必要な傾向は若い時からあったようだが、その後もずっと仙椎四番の状態は変わらず、この打撲で潰瘍性大腸炎のような状態になり、綱渡りのようなバランスをとっていたのだと思う。打撲の後、50代でがんになっても不思議はなかった。

 そのため、先生は自分の状態を指導ができるレベルに保つことに苦心していて、そういう中で著書を出し、新しい人生が始まった時、麻疹にかかった。来ていた子どもから感染したそうだ。

 これは私の想像だが、麻疹にかかった時、これで一度は命を救われたのではないかと思う。本を出してから自分は大きく変わったと言っていたが、無意識下での大きな変動が心にも影響を与えたのではないだろうか。

 しかし、がんという状態をつくり、命取りになったのもこの問題だった。その後、ままた絶望するほどのショックがあり、私が見るようになったころは、仙椎四番左の状況が悪化し、症状も非常に激しくなって、常態化するようになっていたのだった。

 また、野口整体では捻れ型体癖のある人だけの病気と観ている帯状疱疹のウイルスは常在菌で、ストレスなどで免疫バランスが崩れた時、発症する。

 私は以前、NHKのZeroという科学番組で、帯状疱疹ヘルペスウイルスが出す物質が悪性脳腫瘍の増殖を抑えるという研究を見たことがある。帯状疱疹はきちんと経過すれば二度とかからないが、捻れ型を一度だけ悪性腫瘍から命を守ってくれる「神の見えざる手」なのかもしれない。

 その他、丸山ワクチンでも有名な結核菌と癌との関係(これは野口先生がよく言っているし、今は膀胱がんにBCGを使う)、インフルエンザウイルスと白血病、水痘とリンパ腫などの報告があるが、どんなウイルスにどんな応答があるかは多様であることが多いそうだ。

 免疫系というのは「自己と非自己」を分別する働きだと言われるが、非自己を徹底的に排除するだけではなく、ある程度の寛容性を持っている。

 そして口、鼻、胃、小腸・大腸、皮膚などに常在菌が細菌叢をつくっていて、体内で細菌やウイルスとの共生関係というバランスが取れた状態が健康、自然な状態なのであり、細菌叢内のバランスの崩れが疾患を起こすこともあるという。

 この他、腰椎5番と免疫系など整体にとって興味深い研究成果もあるのだが、ともかく今、新型コロナウイルスの完全制圧は不可能というのが現実で、これから先、新たなウイルスが登場する可能性は無限大なのだ。

 ウイルスというのが自然の一部なのだとしたら、東日本大震災の時、被災者の自然と対立しない、共生的な伝統的自然観と、自然を受容する態度を世界が称賛したことを思い出して、付き合っていく必要があると思う。

 しかし、これまで体を整える習慣も、体の変動にどう対処するかという腹をくくる経験も無い人に、今、体も見ないで「薬を飲むな」などと言うことはできない。不安になれば状態は悪化する。基礎疾患があって、常用する薬があればなおさらだ。

 だからこそ必要なのが、普段から「病症を経過する」積み重ねを通じ、免疫系の能力を高め、信頼できる状態を保つ=体の自然と弾力を保ち、整えることなのだ。私はこれが、やがて訪れる死に対する態度を育てる教育ともなると確信している。

※病症を経過する

 症状が起きた時、それを薬などですぐに排除しようとしたり、病原菌(ウイルス)などを即やっつけようとしたりせずに、体のリアクションとしての自律的な全過程を全うすること。こうして、体全体の機能が正常性を保つようにし、過敏(過剰反応)・鈍り(無抵抗・無反応)が正される。

 野口整体の個人指導では、経過が可能な状態であるかどうかを見きわめ、経過ができるように体を整えることを目的としている。

 野口晴哉『風邪の効用』では、風邪の症状によって弛むことができない状態が弛み、心身が弾力を取り戻し刷新していくことの意味が説かれている。

※追記

 Wired.jpに、

「普通の風邪」による免疫が新型コロナウイルスを撃退する? 新たな研究結果が意味すること 

という記事が掲載された。普段の風邪というものを知るためにも読んでみてほしい。

そして、免疫系は経験を通じて発達するものであることも併せて知ってほしい。

 新型コロナウイルス(正式名称は「SARS-CoV-2」)に感染したことのない人たちでも、このウイルスに反応する免疫細胞をすでに持っている可能性がある──。そんな研究結果が、このほど明らかになった。過去に風邪の原因となるコロナウイルスに感染していたことで、新型コロナウイルスに対しても「交差反応」する免疫がつくられたと考えられる例が、2つの研究グループから発表されたのである。

 

人間の内界と外界との調和

人間の内と外

  今日、お散歩している時、ヨモギとフキを摘むことができた。どちらもまだやわらかく、瑞々しい。私の体には、新型コロナウイルスで一躍有名になったセンザンコウの鱗よりずっと良さそうだ。

 マスクをしないで歩いている人はほとんどいない中(私はしないけれど)、高校生ぐらいの男の子が3~4人、マスクなしで、一人で元気にランニングしていて、お!いいなあ…と思う一方、気の毒にもなった。きっとクラブ活動ができないのだ。

 でも、野草摘みなんかをすると、自分と世界の一体感や、生かされているという感じが改まったような気がする。私もやっぱり新型コロナウイルスの影響を受けていたらしい。

 家に帰ってから、早速フキを煮て夕飯のおかずに、ヨモギは少し蒸してから干して、後日ヨモギパンとお茶を作ることにした。亡くなった整体の先生も、山菜が好きだったな…と思いながら、フキの下ごしらえをしていると、先生の身体を観ていた時、よく「同化作用と異化作用」の異常を感じていたことを思い出した。

 亡くなる二年半前、私が危険を直感したのは、先生が肩で呼吸するのを見た時だった。あの頃、先生には、受け入れがたいことに対する強い拒絶と抵抗できない状態が同時にあって、混乱し、解毒ができない(中毒している)状態もあった。

 そして先生は夕食時に「味が分からない」というようになり、その一方で不快感には過敏になっていた。これは私の観方で、野口整体の統一見解ではないのだけれど、私は味覚(おいしい・まずい)が、体内で同化・異化のどちらの方向にいくかを決める第一段階なのだと思う。

 それに、先生は食べ物に「気が集まっていない・密度がない」ことにも、以前に増して過敏に反応するようになった。これは体癖的なものだろう。しかし、そういう中でも、山菜は食べたがっていた。

 私には、先生の免疫系は、このような状態と自己破壊ギリギリの線で戦っているように思えた。あれほどの痛みと下痢、出血があったのは、自分の皮膚を剥ぐように、腸壁の異常細胞をはぎ取っていたのだと思う。トイレから先生の苦痛の呻き声が聞こえると、最初は涙が出たが、きっぱり泣くのはやめた。私は、先生というより先生の免疫系に愉気をしていたようなものだった。

 しかし、最後の半年は、肩も動かなくなり、首で息をしているような状態で、次第に骨盤部ではなく胸椎部に手が行ってしまうようになった。癌は痛くないと言うが、先生の場合は死の間際まで耐え難いほどの痛みがあった。そして、身体は枯れていくのに、気だけが研ぎ澄まされていくようだった。

 死亡診断書には「直腸がんによる腸閉塞」と書かれたと思うが、入院した時の医師の説明では「腸閉塞による感染症で肺炎が起きていて、右肺は真っ白、左は一部に白くないところがある程度で敗血症になりかけている。肺に転移の可能性もある」と聞いた。直接には敗血症が引き金だったのではないかとも思う。

 先生のことを、またこうして思い返しているのは、シュタイナーのアントロポゾフィー人智学)に基づく生理学や身体観の講義内容を読み始めているからで、シュタイナーの言うことには腑に落ちるところがある。

 読み始めているといっても、インターネットで手に入る翻訳(『秘されたる人体生理』の前半部など)などで著作にはまだ当たっていないのだが、実際の治療法ではなく、外界と内界との関係から見る身体観に興味を持っている。

 シュタイナーは「脾臓」について興味深いことを言っていて、外界から取り入れた栄養物の持つ固有のリズム(性質)を、人間の生体内のリズムに変換し、人間本性に適った物質として血液に取り込む臓器だと言う(肝臓、膵臓、胃などの消化器系全体もだが、脾臓はその中心らしい)。

 中国医学では脾のはたらきを「食べた物を水穀の精微という気に転換し血液にする」と言い、シュタイナーの観方と似ている(wikiなどでは、「脾」は脾臓ではなく膵臓のはたらきだと書いてあるが、気で観る身体と解剖学的身体の違いを踏まえていないのかもしれない。間違っていたらご教示ください)。

 以前、西洋医学では脾臓は切除しても問題ない臓器とされていたけれど、近年、切除すると感染症が重症化するなど免疫のはたらきに大きく関わっていること、血液の正常性を保つ大きな役割があると言われている。

 整体操法では胸椎七番から免疫系、血液の正常性などを観るが、癌も七番に変化が表れる。先生の場合も、亡くなる5年ほど前、最初に私が異常に気付いたのは、七番の棘突起に触れた時だった。

 野口先生はより広い範囲での異常状態が変化するところから「胸椎七番はミラクルだ」と講義の中で言っている。そして、K医師という人の話として胸椎七番は脾臓を支配していると言いつつ、「脾臓ではないと思う」とも言っている(K医師は血液をろ過する臓器だと言った、とある。この資料ができた1968年頃は、まだ脾臓は重要視されていなかったかもしれない)。

 まあ、このK医師というのは、解剖して取り出したものを「硬結ではないか」と野口先生に見せたという、あまり気の感覚がなさそうな人なので、「Kさんの意味する脾臓ではない」ということかもしれない。実際、他の講義では脾臓を支配していると言うこともある。

 シュタイナーは脾臓のリズム調整力を整えるために、食事の量を減らして回数を増やす(いわゆる猫喰い)を勧めている。実は、私は先生に「猫喰い」を勧めたことがあるのだが、指導日は朝食をしっかり食べて昼は食べないのが習慣で、それは叶わなかった。でも、もうちょっと強く推せばよかったかな…と思ってしまった。

 また、新型コロナウイルスも、もし本当にセンザンコウであれば経口で人間の体内に入ったと言われている(コロナウイルスによるMERSもヒトコブラクダの肉を食べて感染したという)。もしかしたら、人間の脾臓のはたらきは今、異常状態にあるのかもしれないと思う。最初に嗅覚・味覚の異常が起こる人がいるというのも気になる。

 ちょっと長くなったが、辛い体験だったとはいえ、整体指導者の体をつぶさに観たのは貴重な体験でもあったわけで、野口先生の観点もさらに勉強しながら、人間の内と外の調和について深めていきたいと思っている(あ!「体癖は人間の内と外をつなぐ着手の処である」だった…。今思い出した)。

(補)シュタイナーは脾臓膵臓・肝臓を、栄養物を血液に同化させるための一つの系だと考えている。物質のレベルでは、外界にあるたんぱく質も人間の体を構成するたんぱく質も同じだが、霊的なレベルではそれぞれに本来の性・リズムがあるので、それを変換し、人間に同化するのだと言う。脾臓は外界の栄養物が最初に通過する臓器だとしている。

(補)SARSウイルスの感染は呼吸器感染が最も多いが、SARSでは下痢も多く起こり、便の中にはウイルスが排出される。新型コロナウイルスSARSのウイルスは遺伝子が近いと言われている。

Covid-19陽性の理学所見

北京で「脳脊髄液から新型コロナ検出」の衝撃

地壇病院が今回の症例を公表した文章の中で、重症医学科主任の劉景院は第一線の医療関係者に対し、次のように注意を促している。

「臨床観察で項部硬直(訳注:後頭部やうなじの筋肉が反射的に緊張して生じる抵抗)が見つかれば、それは陽性であることを意味する。突発的な意識障害や意識不明に至った場合は、新型コロナウイルスが中枢神経系に感染した可能性を念頭に置き、直ちに脳脊髄液の検査を実施し、新型コロナウイルス核酸検査(訳注:PCR検査など)を行う必要がある」

3/13(金) 5:45配信東洋経済オンライン より

  これは、先週ネットで見つけた記事の中の一部分だが、私は「脳脊髄液から新型コロナ検出」よりも、劉景院医師が陽性判定の理学所見を述べていることに驚き、感心してしまった。

(ちなみに脳にウイルスが入って起こる症状の多くは、ウイルスそのものによってというよりも、ウイルスに対する宿主側の免疫反応、炎症反応の結果として起こるという)

 理学診断というのは、「五感を使って、最低限の道具で患者さんの状態を把握すること」(知人の医師による説明)なのだが、日本では患者に触れるということそのものが医療から消えつつある。ことに感染症の患者に対しては、まずないのではないだろうか。

 そういう中で、劉医師はじかに患者に手で触れて、捉えたことを堂々と述べているのだ。これはアメリカやヨーロッパ(日本も)の西洋医学の医師からは出てこない所見なのではないだろうか。整体をやっている人間には、こういうことの方が、臨床ではずっと意味のあることではないかと思えるのだが、一顧だにされないだろうな…。

 私がこれまで見た中では、近年使用されている帯状疱疹の特効薬を打った人(男女二名)が、ちくちくした痛みが抜けなくなった時も頸椎が硬くなっていた(頸椎と頭の操法で経過)。ウイルス感染症一般に経過が良くない時、首が硬くなるのかなとも思うのだが、劉先生の理学所見はもっと活かされるべきだと思う。