アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

技術を使う心 2

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 整体操法の技術を、ある病気を治す為、他で治しにくい病気を治すために学ぶんだとお考えになったら、それは違うと思う。

 病気を治すことを目標にしている限り、それが巧妙に行なわれたとしても、治してもらう人の心の依りかゝりは大きくなります。それは効けば効く程強くなります。けれども自分の体はあくまで自分で管理しなければならない。その自分で管理する気持がなくなれば健康にはならない。だから人の不摂生の後始末を親切にする程に、その人は自立する気持を失ってしまうし、その人自身の持っている体の力まで失くしてしまう。その人が、自身の体の力を発揮すれば治っていくものを、依りかゝらせることによって発揮することが出来ない。だから病気を治すということを目標にしている限り、治療ということがどんなに上手に行なわれても個人個人の健康度は高まらない。

 逆にいえば、そういうことがあるという為に自分で自分の体を管理するという責任を放棄し、自分の体の力で生きられることを忘れて、依りかゝり、力の発揮をおこたり苦しいことを避け、楽なことを求め、自分の体の弱い責任を他のなにかになすりつけるような怠慢な生活をつくりだすようになる。これでは人間が独立して生きていくということが行なわれなくなる。

 だからその証拠には、衛生でも、養生でも、治療でも、みんな外から何かすることだと思われている。そうして外から何かすることを大がかりにし複雑にすることが進歩だと思われている。けれども人間の体の面から考えると、何かすることによって健康が保たれるということは退歩であって、何もしないで丈夫であり、何もしないで異常を切り抜けられる体でなければ、健康な体とはいえないのであります。だから他の何かに依りかゝる度合を多くするということは、依りかゝる人自身をフラフラにしてしまうということになる。逞しく自分の脚で行動することを教えねば、皆弱くなってしまう。

 そういう訳で、他の力で病気を治すということは、それが完全にできたとしても、みんなの健康度を高めるということにはならない。何かすることによってではなく、何もしないでひとりでに治ってしまうような、何もしないでいつも護られ、丈夫でいられるならば、それは進歩だといえる。やることが多くなり、やることが複雑になることは、決して衛生生活の進歩ではない。

 そういう考えをつきつめますと、一人一人が自分の体を管理し、その安全を保つことが為されるようになることが、依りかゝるものを多くし、寄りかゝる度合を強くすることより大事なことではなかろうか。

   

 大体わたくし達は、自分の手とか、自分の足とかいうように、手でも、足でも、胃袋でも、体は自分の持ち物なのです。心だってそうなのです。我々は自分の持ち物である体や心を使って、生きているということを全うしているのです。

 それが一旦病気になると、自分の体のほんの一部にすぎない胃袋がチョッと悪くなっただけで、すぐ何か自分が病気になってしまったように思ってしまう。腸だって自分の持ち物なのだから、便秘しているならそれに対して苦しむより、「柔かくも硬くもなく便がニューッと快く出る」と、そう腹にいって聞かせれば、快く太い大便が出るに相違ない。自分の体すら自分で思うようにならなくて健康を求めようとすることは違っていると思う。

 やはり自分の体や心の持主であるという自分を自覚させ、そういう立場で心身を使い統制していくことが大切だと思う。だから自分と体を混同して、体が患ったら自分が患ったように思い込んで慌てふためくことは可笑しなことです。これが自動車なら、調子がわるくなっても、どこか油がつまったに相違ないといって掃除します。油が足りないんだといって油をさします。自動車と一緒になって泣き悲しむということはしません。

 ところが自分の体になると、もっと身近なせいか切実感がありまして、自分が病人になったような気になってしまう。そういうつもりの人を病人でない立場にもう一回置いて心身を使っていく自分というものをハッキリ見させて、その角度から自分の心身の管理を行なわせるようにするということが、我々の第一にやることだと思う。

 片一方の足を無くしたって、わたくしはわたくしでしょう。両脚がないからといってわたはお腹が空きましたなんていわないでしょう(笑)。やっぱりわたくしっていう。だから体が自分でないことはお互い無意識に知っているのです。知り合っていることをもう一つハッキリさせ、ハッキリ角度をつける。つまり体や心の壊れていることゝ、その持主である自分が壊れていることを一緒にしてしまっている、それを分離する。

 人間まで患わせれば、病気が治れば、又病気になるんではないかといって不安になる、又痛くなるんではないかといって煩悶をはじめる。そんな腰の抜けた人間のまゝだったら、腰の抜けた相応の生活しか出来はしない。だからその病人根性をとってしまう。

 体が壊れていようと、心が乱れていようと、健全なる人間をそこに見つけ出していく。そうすることが一番大切な衛生様式でありましょう。人間の本性をハッキリさせるということ以外に、ある一部分だけの細工で健康を保たせることが出来ると思ったら、それは違う。やはり人間の本性を自覚するということが一番大切なことであります。健全なる自分、いや歪みようのない自分、侵されようのない自分を自覚させ、認めさせていく。  

技術を使う心 1

 今日から「整体指導とは何か」の集中講義を始めます!

 といっても、野口晴哉先生の講義の引き写しなのだが、野口整体とは何かを雄弁に語る内容なので、もっともっといろんな人に、整体を知っている人も知らない人も、野口整体ってなんか変?と思う人にも読んでほしいと思い、upすることにした。

 これは私が入門して、一年ほどたった時に読み感動した記事で、これまで、折れそうになったり、迷ったり弱気になったりした時に、何度もこれを読んできたが、その度に初心を取り戻させてくれたものだ。

 それでは第一回目、始めます。

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 昨年の初等講習では活元運動や整体体操についてお話ししましたので、今年の初等講習では整体操法の「型」とでもいう可きもの、つまりやり方を説明して参りましたが、方法は会得したがそれを全体としてどう使うかという運用面についてはまだお話ししておりませんでしたので、今日は伝授会の筈ですが、この時間を利用して講習会の補足に当てたいと思います。

 

 人間が手で体を押さえるということは知識的な行為というより本能的なもので、例えば怪我をすれば思わず押え、お腹が痛ければお腹を押えるというように、思わず押えてしまう。これは世界中どこの国でも同じことで、押える理由を知って押えているのではない。知識以前の反射行動であり、本能的な要求によって無意識にやっていることである。痒いところを掻くのだって、みんな無意識にやっている。掻くと痒みのとれる理由を理解しての行為ではない。けれども痒いと思わず掻いてしまう。何か体に異常感があると手を当てる。まァそういうことが手当てという言葉の残っている理由だろうと思うのであります。

 ところが近頃のように生活が複雑になって頭が忙しくなってくると、異常を感じるということが外に気をとられて鈍くなってしまう。その結果、単に手を当てるだけでは治らないところ迄行って、はじめて異常だと自覚するようになってしまっている。

   

 ですから、人間が原始の頃のような心をもって体を使っておれば、つまり敏感な状態に戻しさえすれば、手を当てるだけで異常を経過するということが可能になる。そういうような異常に敏感な状態を保って生活することが今の人には特に大切な体の使い方ではなかろうかと、そう考えるのであります。

 では、異常があれば手を当てるだけで治るような体にするにはどうしたらいゝかというと、体が鈍った状態のまゝではまずい又体が鈍ってなくとも、心がよそ見をしたまゝではやはり体が鈍ったのと同じ状態になる。

 だから潜在意識の方向を正し、いろんな生活のために生じた体の歪みを正し、それによっていつも敏感な状態を保つように、整体操法とか、整体体操とか、活元運動とかいうものを行っているならば、いつでも敏感な体を保てる。そうすれば異常があったら手を当てるだけでいい。出来れば何もしなくとも健康を保てるような体にしたい。

 つまり異常感に敏感な、そうして異常を感じると一緒に自づと整っていくような体を保って生きたい。そういう体をつくってゆくことに、自然に具っている手を使うということを積極的に活かすにはどうしたらいゝかということが、整体操法のうまれた理由でありまして、昨日までお話ししましたことはそういう整体をつくっていく技術であると、先ずそうお考え願いたい。

 そうすると、生活するのに大事なことは体を敏感にし、その体自体のはたらきで生きていくことであることがお判りになる。今迄のように病気になるごとに体を鈍くし病気になるごとに片輪になり、又いろいろ工夫して病気に鈍感になるような方法が採用されているようでは、人間はだんだん鈍さをますより他ない。

 まして最近のように治すということが体のどこかを傷つけることによって行なわれているのでは、とても敏感な体は保てない。だから整体協会の仕事は、人間の自然の体を護ろうとする運動だというようにお考えになったら、もっと判り易いかもしれない。

…つづく

 

生きている言葉と死んでいる言葉

生きている概念やイメージは
自分の成長と共に変化して
他の素材と結びつき
その意味を広げて大きくなって行く。

死んでいる素材は
変化する事なく留まり続ける。

自分の思考過程で使っている素材に対して
生きているものと死んでいるものとの
区別を意識してみるのも面白いかもしれません。

こういう言葉を、前回の私のブログに寄せてくれた人がいる。
今回は、このことをお題にしてみようと思う。

やっぱり、知っているというだけのことは、やっぱりちょっと死んでいるというか、
止まっている感があるな、と思う。
感じることであっても、感動があるのとないのではやっぱり違う。
感覚にも、外界感覚的なのと、身体感覚的なのがあるのだろう。
その中でも、皮膚で感じたこと、筋肉で感じたこと、骨で感じたこと、それぞれ違う。
頭で感じたこと、腹で感じたことも違う。

自分の中で生きていることには、感情がある。
それも、嬉しい悲しいとか、好き嫌いとか、
そういう色付けが洗い流されて、透明になった感情。
色がついている時は、その人個人の範囲を出ないけれど、
透明になると、他者の心に浸透したり、動かしたりする
心の媒体のようなものになるのだと思う。
気、というのがそれだ。

このコメントを貰って思い出したことがある。

ずっと以前のことだけれど、ある40代の女性が、
ある名の通った整体指導者の指導を受けていたが、
私の整体の先生の指導を受けるようになった。
その女性の話を聞く機会があって、彼女はその指導者に
「あなた、死にたいんでしょう」と言われたという。
がんと潜在意識の深い関係についてはよく知っている人だったが、
その言葉に言い知れぬショックを受けたと言っていた。

確かにその女性には、死を美化しているようなところがあって、
そこを捉えて言ったことなのかもしれない、とは思う。
しかし、潜在意識についてのことは、真理であっても、知っているだけでは何にもならない。
野口先生の説くことは、すべて自分の涙や痛みと引き換えでなければ理解することはできないものだ。
ましてそれを使うとなったら、自分の感傷も洗い流さなければならない。
そうでなければ、相手を傷つけるだけになる。
この指導者には、それがなかったのだろう。私も胆に銘じようと思う。

 

お題をもらうのって、なかなか面白いもんだな…。

美しい何か

 これは、私が大学一年時、陶芸をやりはじめた頃、国吉清尚(くによしせいしょう)という沖縄の作家の窯を訪ねた時のことだ。

 当時、国吉さんは、銀座で個展をする沖縄では数少ない現代作家だった。しかし、国吉さんは無教養な子どもでしかない私に、「今の作家が作った器なんか見ててもつまんないよ」と言い、近くの浜につれていって、自然の中で、貝とか石とかいろんなものを見て、美しさを自分で見つけられるようになりなさい、と教えてくれた。

 そして、古いもの、江戸時代より前のものを見ること、それもヘソを見るものに向けて、ひとつになるつもりで見なさい、と言った。

 そうしていると、美しいものがどんな時でも、どんなところでも目に入ってくるようになるのだという。

 私は厚かましくも一泊させて頂き、国吉さんは最後に、「これはちょっと灰と貝がくっつきすぎて売り物にはならないけど、気に入っている」というぐい呑みをくれた。

 そして、穴窯を私に見せながら、「窯を焚いていると一緒に自分の雑念も燃えるような気がする。つくったものも、自分の我が消えて浄化されるんだ」という話をしてくれた。

 国吉さんはもう亡くなったが、あの時、教えてもらったことは、その後、私に深い影響を与え、ずっと忘れずに守り続けた。そして、私の心の核となっていった。それが本当に私の助けとなってくれたのは、整体の先生ががんであることを知ってから以降のことだった。

 先生は自身が癌であることを誰にも告げずに亡くなった。それは、体調のすぐれない先生が病院に決して行こうとしないことに対して、周囲から次第に批判の目が向けられるようになっていったことが背景にある。

 そのことを先生は私に言うことはなかったが、私はそれを薄々感じ、私がいるせいだという声もあることに気づいていた。そして先生も苦しみ、私も苦しんでいた。一番苦しかったのは、先生の体と病症に向き合うことではなく、そういう周囲の眼であったと思う。

 そんな中、私を支え続けたのは、道場のトイレと指導室に、野の花を活けることだった。それ以前にもたまに活けることはあったが、私は亡くなる二年半前から、それを自分に課すことにした。

 それも花は一切買わないで、自然にあるものだけを使うことにした。幸い道場の周囲は自然が多かったが、活けられるものはそれほどあるわけではない。 しかし、それを見出せる状態を保つことができれば、私は先生に愉気をすることができると思ったのだ。

 美しいものが自然に目に入ってくること、それが私にとって、正心正体であることの基準だった。

 すると不思議なことに、冬でも梅雨でも、いつも活けるものは見つかった。まるで「ここだよ」と自己主張しているように見えたのだ。においのあるものを使ってしまって叱られたこともあったが、先生はことに、赤い藪椿と黄色の黄藤、椿の濃い緑の葉の取り合わせを喜んでくれた。

 先生は山野草が好きで、自分でも花を採ることあって、白い椿のつぼみに手をかざして咲こうとする勢い(気)を感じることを教えてくれたことがある。亡くなって数か月後、「野口整体を愉しむ」という、野口晴哉先生の講義内容を紹介するブログを読んでいたら、野口先生が同じことを講義で言っている記述があり、非常に驚き、思わず涙がこぼれたことがあった。

なんだかとりとめのない思い出話になってしまったが、英語にもbeautiful something(something beautifulだったかな?)という言い方があって、心や生命のもつ光や輝きのことを意味すると聞いたことがある。有名なSence of wonderというのも、これに近い感覚だろうか。

「人生は楽々、悠々、すらすら行動すべきである」と野口先生は言う。私もそうしたいけれど、生きていると、孤独な時もあるし辛い時もある。そういう時でも、美しい何かが観えるのならば、私は整体なのだと思っている。

 

トイレで「仏さん」に会う

トイレの中の禅

 高校一年生の学年行事で、静岡県袋井市にある可睡斎という禅院で三泊合宿をした時のことがあった。当時、可睡斎で私たちが泊まった部屋は本当に質素で、食事も一汁一菜の精進、お喋り禁止、沢庵で茶碗を洗うお作法を教えられた。

 しかし、トイレ(東司)は、本当に贅を凝らした造りで、広くて、寄木の床も何もかも磨きぬかれていて、見たこともないほど美しいトイレだった。

(註)一九三七年建築の瑞龍閣にある。当時最新の水洗和式。

可睡斎は六百年余の歴史を持つ曹洞宗の古刹で、修行道場。明治初期、神仏分離によって秋葉大権現三尺坊の御真躰も祭られるようになった。

 私はそれを不思議に思い、合宿最終日にトイレから出た時、袈裟を着た僧侶にばったり会ったので、「どうしてこんなにトイレがきれいなんですか」と質問してみた。

 その初老の僧は、「部屋も飯もみすぼらしいのに、何で便所はこんなにきれいかと思ったんやろ」と言って笑い、「便所はな、仏さんと出会うところや。誰でも用足すときは仏さんに会っとるんだ、だからきれいにしとくんや」と教えてくれた。今思うと、作務衣ではなく、その日は袈裟を来た僧を何人も見かけたし、関西弁だったので、可睡斎の僧ではなかったのかもしれない。

 昔から祖父の家や実家のトイレにはお札が張ってあって、烏枢沙摩明王がいることは知っていたが、その言葉を聞いて以来、私はトイレで用を足すことの意味ががらりと変わり、心を落ち着けて用を足す、という習慣が自然に身についたのだった。

 後に野口整体を学び、あれは私の「禅との出会い」だったんだな、と思うようになった。本当に、内なる自然が働く排泄時だけは、皆「無心」になることができるのだ。嫌な気分になったり、落ち込んだりした時も、トイレに行くとふっと緊張が弛む。内なる「仏さん」に出会うことができる。

 特にしゃがむ姿勢は、頭の緊張が弛み、重心が下がって腰(腰椎四番)が働くので、用を足す型として非常に良い。西洋では、ギリシア時代から腰掛ける型だというが、東洋では用を足す時、しゃがむ姿勢を取るのが伝統的・普遍的な型だ。

 しかし、今は小学校でしゃがんで用を足せない子どもがいて、練習させることもあるという。整体的には「しゃがめない」というのは腰が硬い、重心が高いということなので(体癖が開型の人は一番下までしゃがもうとするとひっくり返ってしまうので除外)、トイレは洋式になってもしゃがむ姿勢は時々思い出して、やるほうがいい。

 以前、バラナタティアムというインドの古典舞踊を観た時、最初に蹲踞(そんきょ。力士が土俵でとるしゃがみ姿勢)の姿勢を取ってから始めたので驚いたことがあったが、しゃがむ姿勢は東洋の心と深い関係があるのだと思う。

 ちょっと脱線してしまったが、トイレに入ったら天心にかえり、内なる自然がいつも自分の中にあることを感じてほしい。これも整体生活、である。

感受性を高度ならしむる

感受性を高度ならしむる 

 野口晴哉先生は、大人が自分のための潜在意識教育として、また潜在意識を理解する最初の一歩として「自分との対話」を説いた。それは、野口氏自身が裡の自然を取り戻し、全生するために行ってきた過程である。

 野口先生自身、二歳で養子に出され九歳で実家に戻された成育歴を持つ。幼い時に罹ったジフテリアが元でかすれ声しか出ず、言いたいことが言えなかった。先生は「僕は九つの時、自殺しようと思ったことがある」と言う(『朴歯の下駄』野口昭子)。

 15、6歳の頃には肺結核の三期となった。先生はそのことについて、潜在意識教育の講座の中で、育てた恩を着せるばかりの親が嫌いだったことを述懐している。

また、自分は何もない中で育ったから、予備の予備までないと心配になる、とも言う(『潜在意識教育』)。先生は次のように語っている(月刊全生)。 

…なぜ自分を主張するのだろうか。自分を主張していないと消えてしまいそうで不安なのです。自分の生きていることに自信が持てないのです。…体の中で注意を集める要求があり、その要求が充たされないと不安になり、注意を集めるための行動を起こします。その注意の要求を充たすためには、怪我をすることや病気をするということが大変便利な方法なのです。

…私も子供の頃は弱い方で、よく病気をしました。しかし病気になるのは卑怯だ、仮病はやめようと思いました。病気は自分でなろうと思えばいつでもなれる。痛いとか、痒いとか言っているうちに熱が出てくる。他の人たちは知らないから、熱が出てきたから病気だと思う。病気を必要とする自分の心を観ていますと、仮病が分かるのです。そこで仮病はやめたのです。

…対話の問題を解決するのは、相手を観るということから始めなくてはならない。それには自分と対話して、自分の本当の欲求、いま本当に欲しているもの、得ようとしている処のものをまず明確にしていくことです。

  私の師も、生い立ちには恵まれなかった。家が貧しかったわけではないが、母親が姑との対立の中、中絶しようとしたこと。子どもの時に怪我をして、寝ているときに母親が自分のそばにこようとすると、父親が行かなくていい、と言ったという話を聞いたことがある。先生の腿には、その時のえぐれたような大きな傷跡があった。医者の処置も悪いのも相まって、非常に経過が悪かったのだそうだ。

 先生が晩年がんになり、それが死につながったことと、この成育歴は無縁とは言えないと思う。しかし、先生は野口師の潜在意識教育に目を開かれ、そういう自分と対話すること、無心を鍛錬し自分の感受性の歪みを超えることで、整体指導者になる修行を行ってきた。そういう先生に、野口先生は「あれは求めているんだ」と言ったという。

 先生は整体指導者と認められる段位を取る際の試験で、「整体指導の目的とは何か?」という問題に、「感受性を高度ならしむる」と回答して合格したと聞いた。

 自分の持って生まれた体癖的感受性、そして育っていく中で形成されていく感受性。仏教などでは、生命体は、自分にとって意味のある物だけでつくられた世界の中で生きているのだという。

 その意味のある・ないを決めるのが感受性というものだ。感受性は、生命体が反応と行動によって外界に適応し、生命体にとっての意味や価値のあるものに注意を向ける中心となっている。情動はそのはたらきそのものだ。

 動物は、その種に先天的に具わる感受性に従って生きる割合が高いが、人間は後天的な部分がかなり多い。それは、人間がほかの動物に比べて、未熟児に近い状態で生まれるからかもしれない。同時に、自分の感受性を自覚し、変えていくことができるのは、人間の特徴だと言えるだろう。

 この生まれつきと成育歴による感受性は、人の「宿命」のようなものだ。それを超えていくのが「感受性を高度ならしむる」ことなのだと思う。

 私は、先生は死の間際まで自身の「宿命」に挑戦したのだと確信している。

心的孤立と感情の停滞

健康に生きる心

 私は野口整体がもつ智慧の中で、今一番必要なのは、また積極的に伝えていきたいのは、潜在意識に関わることだと考えている。人間にとって一番大切で取り換えのきかない健康というものを保持する上で、潜在意識がどれほど大切なのかを、実感として捉えられる人はごく少ない。

 ストレスという言葉だけが独り歩きしていて、それにどう対するかといえば、結局薬で症状を抑えることで「コントロールしている」と思っているだけだったり、ストレス発生の元となる逃げられない人間関係を、頭で解決しようとしたりしていることが多いのだ。

 野口晴哉先生は、関係性の中における個人という視点から、人間には「対話の要求」があることを説き、晩年、潜在意識教育の中心的問題としていた。

「対話」とは単なる会話と違い、「心が行ったり、来たり」することを意味する。整体指導の観察で、身体に触れることも対話である。それで人とつながり(関係性)ができることによって心は安定する。

 感じているが言葉にならない、まとまった感情にもならないことこそが本当に訴えたいことであって、言葉で訴えることができるのは表面的・二次的なことで、裡で本当に感じていることは訴えられない。

 その訴えたいのに表現できない感情を、痛み、凝り、歪み、また病症として身体上に表現している。対話の要求が充たされないから、体で、訴えている。

 対話の要求があるから、それができないことが問題になるのだ。

 野口先生は次のように述べている(心の問題)。

 健康を保つという面からみれば、その複雑な心によって自分の体を壊し、その能力を抑えつけるような生活をしている。自分との対話をしても、自分の力を発揮し、元気を出させる方向の対話ではなく、いよいよ自滅するような方向に引っ張っていく場合が少なくない。

…笑う時に笑って、泣くときに泣いて、それで無事でなければいけない。そういう世界を作らなくてはいけない。ともかく人間は、自分の複雑な心で、かえって自分の生命を保つことを疎外している。

  ここで野口先生が言う「心」とは、潜在意識のことである。相手が言葉(現在意識)で訴えていることを聞きつつも、身体が表現している「潜在意識での訴え」を観察する(受け取る)ことが「観察」なのだ。

 指導に来た時、また普段の生活においても人というのはいろんな表情、振る舞いを見せる。それは自分以外の人に対する表現であったり、気張りであったりするが、それが伝わらないと寂しさや不満を感じる。

 こうしたことが素直に出ている人は正直なのだが、言葉や表向きの顔では楽しくやっている、うまくいっているということを振りまいていても、背中の表情は鬱的だったり、体を歪め耐えていることもある。

 多くは自分でも気づいていないので、あながち嘘だとも言えないのだが、内と外の違いが大きいほど、身体的な停滞、偏りが強くなることは確かである。

 自分に対してもいつも正直であるわけではなく、本当は「自分にも非がある」と気づいていながら「正しい」と我を張ったり、言い訳したりすることがあるし、怖いのに「怖くない」と虚勢を張ったりする。

 こんな時は、意識以前の心が「孤立」を感じている。家族や友だち、職場の人などがいるとしても、心で孤立を感じているのだ。これは社会的孤立ではなく、「心的孤立」である。

 自分の中で起きていること、つまり、人間の生命とつながった心(本心・要求)と、知識や頭にある心との統合が揺らいでいる、分離があるということである。

 形の中にその人の本心があり、同時に日々の情動による変化が表れている。それは、眼だけではなく、手からもひしひしと気が伝わってくる。それを気を通して受け取っていく。無心であれば、相手のそのままを受け取ることができ、確かなものが観える。

 こういうことが整体指導での観察で、自分の体でこれを受け取ることができるように、無心を訓練していく…というのが、修行。

 やっぱり、健康には「澄んだ心」が一番、ということだ。