人間における自然ということ
生物は外界の刺戟に反応を呈することによってその生存を全うしているのであるが、外界の刺戟に対してどの生物も一定の反応を示すとは言えないが、特に人間にあっては様々であって、同じ時計の音がうるさかったりすることは、同一人であっても条件次第でそれが生ずる。
事が異なると、いろいろであるが、更にその人の、その時の状態で又異なる。時計の針の動きでも、小言を言う方は早く感じ、小言をいわれる方は遅く感じる。一日千秋のことも、光陰矢の如きことさえある。
それ故、外界の変動の刺戟が刺激となることは感受性次第であり、その感受性は各人の生理的、心理的条件で異なることを先づ考えねばならない。
野口晴哉『体癖 1』二
このところ、ストレスについて少し復習していた。冒頭に引用した野口先生の文章で言うと、「外界の刺戟」がストレッサーで「反応」がストレス反応(快ストレスと不快ストレスがある)、というのが学問的な言い方である。しかし一般には原因と結果、どちらも「ストレス」と言い、特に心理的ストレスでは、不快情動(感情)反応を「ストレス」と言うことが多い。
今、学校や企業などでもストレスマネジメントが課題になっていて、取り組みが始まっているようで「感受性は各人の生理的、心理的条件で異なる」といったこともストレス理解の上では認知されてきている。しかし対応策になると、個人の内側の条件にまで踏み込んだものはあまり見かけない。
それは、キャノンやセリエの生理学的なストレスの考え方が、刺激に対して受け身で、病理学的だからなのかもしれない。一般的なストレスマネジメントの考え方にも、「原因」を明らかにして対処する、対策を講じるという姿勢が強い。また、ストレス反応を「病気」「良くないこと」と見る傾向もある。
ついでにトラウマ(心理的外傷・PTSD)も「原因」であり、さまざまな反応を「病気」としてなくそうとする。
本当は、ストレス理論の原点となったセリエとキャノンは、病症をストレス状況に対する「再適応の過程」と見る視点を持っていたのだが、細菌以外の「病因」の発見ということの方が注目を浴びたのだろう。
整体では病症のことを「変動」ということが多くて、「再適応の過程」の方向か「破壊」の方向かを観察で見きわめた上で、経過を全うさせる。こうして病症をなくそうとするのではなく「再生」を図ろうとするのだ。「病症が体を治す」と野口先生は言った。
整体の見方からすると、ストレスマネジメントとして「病症を経過する」時間を与える(診断書不要で休ませる)というのも入れてくれないか、と思ってしまう。いろいろ頭で考えて対策を講じるより、「病の時間」の方がずっと有意義であることが多いのだ。
病症を経過することで鈍っていたところに感覚が戻り、過敏だったところに静けさがもたらされると、それは感受性として、当然、心理的にも変化が訪れる。
もちろんこういう経験は、普段の整体生活あってのことで、なにもしていないのでは難しいが、病症をなくす手段を講じ続けることで、生きる力を殺いでしまうことは薬の過剰摂取などを考えてもお分かりかと思う。
それに私は、その人の魂にまで損傷が至らないように、体が病気になること、病症が背きあっている心と体を統合する働きをしていることを見てきた。
ストレスを考える上でも、「病気にならないように」を超える深さを持つことが大切なのではないだろうか。