アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

母子分離と体の発達

 整体指導を行う指導者は、ほとんどの人が「自分の家族の指導は難しい」と言う。奥さんの指導を他の先生にお願いしているという指導者は意外と多い。親などはことに難しいというが、プロであればそう感じるのが正常かつ謙虚な感覚であると思うし、西洋医学の医師もそういう人が多いと聞く。

 また、指導者ではない人で、整体を始めた後に、実家に帰省するとひどく体を偏らせて来ることがある。これは、親からの心理的分離(独立)が無意識裡に進み、子どもの時のように親と一体化して実家でくつろげなくなるためではないかと思う。

 しかし私は、母に愉気をすることで、親からの精神的な分離を図ってきた経緯がある。そのことについて書いてみたい。

 私と母は、もともと性格(体癖)も違い、あまり気が合う親子というわけではなかった。それに、私の出産直後、母は大出血で意識不明となり、その後、私が八カ月位の時に一か月ほど入院した。

 その時、母は深刻な状態だったらしく、子どものいない叔母が私を貰って育てようと思ったという話を、その叔母からよく聞かされた。

 そういうこともあって、母子関係としては少々つながりが「弱い」傾向があったのだろう。少なくとも子どもだった私は漠然とそう感じていた。

 私は小学生の頃から鍼灸をやっていた叔父から「手当て」を教えてもらったこともあり、体をマッサージしたりするのが好きで、友だちの生理痛などを治したことがあるし、母が体調を崩した時にはよくやっていた。そういうことも、自分の潜在的な寂しさから来る要求だったのかもしれない。

 そして、整体を学び始めて、最初に愉気をしようと思ったのは母だった。その時から、子どもの頃からの延長ではなく「母という人を理解しよう」という気持ちで愉気をすることを心に決めた。

 親子のつながりというのは、しっかりとしていればいるほど無理なく離れることができるのだが、つながりが薄いと、不満や苛立ちが「感情的つながり」になってしまい、離れたくても離れられなくなるものだ。私はそれを「理解すること」で超えようと思ったのだった。

 その後、背骨の観察をするようになると、親子関係は臨時に切らなければ観察ができないことが分かってきた。そして、私はこれまでとは違う関係性で母を理解するようになった。

「母親」だと思うと、自分の中の母親像を投影してしまうので、実際の母親がどういう人かが見えないまま、期待や要求どおりではない相手に不満を募らせることになる。私はそういう自分の感情を整理するためにも、帰省すると母を観察することにしていた。

 私が母子分離はこれで完了かな・・・と思ったのは、今から7~8年前、旅行中に母がけいれんを起こした時だ。正直、最初はどきっとしたが、何とか治めることができ、次の日には全快した。その後繰り返すこともなく今に至っている。

でも、その経過を最初から最後まで見届けた時、親子関係がひと段落下というか、ある程度終わったような、一抹の寂しさを感じた。観察すれば、親としての顔ではない「本音」が丸分かりになる。それは親ではなく、丸裸の人間として相手を受け入れるということなのだ。

 家族同士の愉気というのも、それはそれで大切なことだが、整体指導を学ぶのであればそこに留まるわけにはいかない。血縁のつながりという範囲ではなく、気のつながりへと自分を広げていかなければならないからだ。

 まあ、親はさほどのこととは思っていないのだが、自分としては心理的独立、そして観察する立場を確立するための必要な過程だったのだと思う。

 親との関係で悩む人というのは意外と多く、健康に生きる上で障害になることも事実だが、こういう問題を超える上で腰椎が発達し、しっかりと働くようになることが重要になる。

 以前、私は整体の先生に腰椎三番の問題を指摘されていたことについて書いたが、それは私の成育歴の問題と一つのことで、こういう観方は整体独特だと思う。

 子どもの時のことを思い出してもらうと分かると思うが、心の発達というのは体の発達とともにあって、それは成人になっても変わらない。私は普通より早い段階で天心が曇ったために、身体に自然な発達過程から取り遺された部分があって、心も体も子どものままの部分があった。私はそれを発達させるために整体を始めたのだ、ということが、今になってよく分かるようになった。

 すいぶん前のことだが、野口裕之先生が『月刊全生』で「自分には整体に出会ったという喜びがないから、それがあるということは大変貴重なことだと思う」といったことを語っているのを読んだことがあり、その時は「こういう風に思うものなのか・・・」という感じだった。

 私などは生まれた時から整体の中で育った人がうらやましいと思ったものだが、母が整体指導者だったという人の話を聞いたりすると、それほど単純なものではなく、却って整体に対して素直になれない部分もでてくるようだ。

 そして、自分にとっての整体というものがはっきりしてきたことで、裕之先生の言葉の意味が分かってきたような気がする。

「気と生命時間」のことを書きたかったのに長くなってしまった・・・。つづく。

 

 

大脳を中心に生きる人―上下型体癖

上下型体癖

 野口整体の「体癖」という観方について、このブログでも何回か書いた。ある人の体癖を観る場合、その人の心と体がどういう風に動くのかを観察するのが着手になるのだが、今日は上下型体癖について書いてみようと思う。

 上下型というと、典型的イメージは、背が高くて首が長くて、動作がゆっくりで反応が一拍遅れている、客観的・・・という感じで、立ったり坐ったり、など動作する時、まず最初に首から動き、よくうなづく、といったところだろうか。あとは眠れないことや、睡眠時間を気にするというところかな。

 しかし、そういう面が外に出ていない上下型もあり、小柄な人で首が上下型なんていう人もいるので、あまり固定的に見た目で判断することはできない。

 前に、私は捻れ型八種が苦手だった話を書いたが、苦手というより自分と相当に違う種族だな、と思うのは上下型だ。それだけに、本人は「常識」だと思っているその世界観は興味深い。

 前回紹介した『霊療術聖典』の中に、「大気養法」という透視・念写で有名になった人が開発した方法が載っているのだが、その精神統一法に「精神旅行」というものがある。

 それは、過去に旅行し脳裏に印象を止めたことのある場所へと氏は精神旅行によって「精神入湯」(温泉入浴)をしろ、とまで言っている。そして「当時を想起し、その当時における自己となり得たならば、精神を爽快にし、昂揚し得るは勿論、疾病をも治癒し得る」と言うのだ。

 野口晴哉先生は「上下型は旅行の計画が完成すると、実際に旅行しなくてもそれで満足する(机上旅行)」「頭の中で運動会を開く」と述べているが、この行法は上下型のある人が開発したのではないかと思う。行動的な捻れ型や前後型の弟子には苦行だったことだろう。

 また、この行法では「観念」をすべての要求力とそれを果たす力であるとし、一切を実行する原動力は観念であると述べている。そして「義務と責任を果たす上に働く力」という言葉が「一切」の例の筆頭に出てくる所も併せ、上下型的で興味深い。

 野口先生はよく「上下型は毀誉褒貶(きよほうへん・褒めたりけなしたりすること)を重んずる」と言うが、これは「人に(自分が)どう思われるか」が非常に気になるということだ。

上下型は自分の感じたこと、思ったことは信じていないし重要だとも思っておらず、人が言ったこと(皆が言っていること、常識的なことを含む)を信じる傾向がある。明文化されていると説得力が増すようだ。

 そして自分のことは、いつも「これでいいのだろうか、本当はどうなのだろうか」と疑念や不安を持っている。

 つまり自分の体(感覚や感情)とは関係なく、頭(大脳)で判断したこと、考えたことが「現実」なのだ。上下型にとって「皆が正しいと判断するだろう」と考えたこと、「こうするのが正しい」とされている通りにすることが「要求」であって、自分の中から直截に出て来た要求に従って行動することではないのだと思う。

 先の「大気養法」では「観念が一切の実行力である」と説かれていたが、上下型には真実なのだ。

それでもあまりに頭に支配されることに偏ると、自分の体がついていけなくなるし、他 人のことも頭で対処しようとするので、やはり体癖修正は必要だ。

頭から体へのダウンロードは早いが、体から頭へのアップロードは遅いので、感じることに注意を集めていくことと、頭の過度緊張を弛めることが大切になってくる。

どの体癖の人でも、頭の緊張が強くなると上下的になってくるし、重心が高い現代人はその傾向が強い。今西錦司(註)という学者は、「人間は大脳で環境に適応する唯一の動物である」と言ったが、上下型を理解するとそれがよく分かる。そして、大脳の発達と、自然から離れていく傾向は一つのもので、良くも悪くも人間という種の特徴を生んでいる。

 野口先生はハンス・セリエのストレス学説を上下型二種の説明そのものだと解説していて、ストレス学説から上下型を理解するのもいいかもしれない。

 体癖としてではなく、人間の特徴をまず勉強するという視点で上下型を理解するというのが「正しい」!と思う。

(註)今西錦司 固体の性質が有利に変化し、その性質を持つ個体の割合が多くなることで種が変化するというダーウィン進化論に対し、「住み分けと多様化」という共存原理による進化を説いた。今西は、個体ではなく種単位で変化が起こると述べている。

 

『白隠禅師 夜船閑話』と『霊療術聖典』を読み返す 2

『霊療術聖典

『霊療術聖典』は昭和9年発行(私の手元にあるのは復刻版)、当時有名だった15名による霊療術を紹介している。野口昭子夫人の『朴歯の下駄』にも出てくる本だ。

 初めてこれを読んだ時、霊療術なるものの大家として野口晴哉先生(当時20代初め)が紹介されているのにはちょっと驚いた。今、野口整体が「霊療術」というジャンル?に入ると理解している人はあまりないと思うが、源流はここにあることがよく分かる。

 私はこれまで、野口法(野口整体。原稿は野口先生の書下ろし)の頁しか読んだことがなかったのだが、今回、ほかの療術も読んでみた。

 私が知っているのは松本道別「人體放射能療法」、田中守平太霊道」ぐらいで、後は全然知らないのだが、おしなべて表現が濃いというか個性的というか、ちょっとやり過ぎという気もする。

 霊療術の多くに霊動法(整体での活元運動)類似の運動が含まれており、当時の方が今より普通に受け取られていたように思える。ただ、現在まできちんと継承されているのは野口整体だけかもしれない。

 どの療術も坐と呼吸、気海丹田、気、精神統一(精神療法)といったことが基本であり、触手療法と修養法からなる。

 この精神という言葉を、今は理性や意識と受け取る人が多いかもしれないが、この時代は「気」「霊性」という意味である。当時、野口法は「精神療法」とも言われていた。

「霊」という言葉も、今でいう潜在意識、無意識(宇宙霊は集合的無意識)の意味で使われている。この本では霊界の三傑などという表現もされているが、今、霊界というと死後の世界を思う人が多いし、随分言葉の意味が変わったものだ。

 大雑把に言って、霊療術とは、仏教、各種神道道教儒教修験道、武術などに伝わる瞑想的行法と多様な民間療法の伝統を引き継ぐものを意味する、と言っていいだろう。

 そして、この本にある野口先生の、

「自ずから心がスラスラ働いて、どこにも引かからず、止どまらざるが、是れ即ち静かなる也」

「心に滞り捉われがなくなると、いのちの働きは無礙となって、人は自ずから健やかとなり康らかとなる。」

という言葉は、白隠禅師の自由闊達さに通ずるところだ。

 それにしても、野口先生の文章はすっきりとしていて、「濃い」15の霊療術の中でモダンさが際立っている。冒頭の紹介文には、

本書の目的とする所は諸霊術家の実地健康法の紹介であるが、・・・野口法は理論的、哲学的に注目すべき特徴あるため、特に本法に限りその哲学的方面を主として紹介することとした。

とあり、これは野口先生の意向だったのではないだろうか。

 この中では野口法(野口整体)が最も命脈を保っていることを考えると、「思想のないものは滅びる」という野口先生の言葉は、やっぱり正しかったのだな・・・と思う。

 

『白隠禅師 夜船閑話』と『霊療術聖典』を読み返す 1

1『白隠禅師 夜船閑話』

 整体に入門したばかりの頃、私は白隠禅師の『夜船閑話』(高山 峻・大法輪閣)を買った。整体の先生に見せたら、『夜船閑話』は野口先生のおすすめ本で、講習会の時に販売用に置いてあるのを見たことがあると言っていた。最近、私はこの本と『霊療術聖典』を読み返してみた。

 この版の『夜船閑話』は、高山 峻氏という西洋医学の医師が注釈を書いているのが特徴で、初版は昭和18年、戦中だ。

 高山医師は「現代の考えからいっても人の重心はたいてい臍下であるが、もし重心が上に上がったら困ったことになる。」「・・・今の青年男女、ことに銀座型(銀座を闊歩している若者)にはこれら重心を失ってしまってフラフラしている連中を相当見受ける。」「この連中は皆神経衰弱や肺病の連中が多い。」と述べている。

 私は今回やっとこの記述に気が付いたのだが、お医者さんが「重心」についてこんなふうに言うとは!昔の人はやっぱり違うな・・・と思った。『夜船閑話』には次の有名な言葉がある。

我がこの気海丹田、腰脚足心、総にこれ我が本来の面目。面目なにの鼻孔かある。

我がこの気海丹田、総にこれ我が本分の家郷。家郷なんの消息かある。

我がこの気海丹田、総にこれ我が唯心の浄土。浄土なんの荘厳かある。

我がこの気海丹田、総にこれ我が己身の弥陀(阿弥陀如来)。弥陀なんの法をか説く。

 仰向けでこの言葉を思念し、下体に気を充たすという熟睡のための行気法と、軟酥の法という内観法が説かれており、江戸時代、『夜船閑話』はベストセラーとなった。

 私自身、以前読んだ時よりも気づいたことが多く、こんなに面白い本だったのか・・・と思った。

 白隠禅師に内観法を説いた(という設定になっている)白幽先生は、儒学老荘易経漢方医学に通じた人で、「お前は公案を考えすぎて気が上がってしまい、それで病気になったのだ」と指摘する。

 そして「心気を下げて(情動を鎮めて)、魂を丹田に落ち着けなさい。私は道家風に見えるだろうが、私が説くことは禅そのものである。君が悟りを得た折には笑って理解するだろう」と言う(私の意訳)。これは白隠禅師自身の言葉だろう。

 高山氏は「自分が本書を勧めるゆえんは、病者の心中より疾病という観念を取り去る方法として最も行い易く、しかも理論的にできているという点」にあるとのことで、深呼吸法は勧められないという(『夜船閑話』に深呼吸は説かれていない)。

 体(特に鳩尾)が硬張っていれば呼吸が浅くなるのが普通で、それを意識的に呼吸のみ深くしようとするのは不自然だし、自分の自然な呼吸が分からなくなってしまうという弊害を時々聞くことがある。

「筋を弛めると、自ずから下腹で呼吸するようになるのです」(野口晴哉)ということが意外と知られていない。他の行法をやっている人も、他の行法をやっている人も、これは体に無理をかけないため知ってほしいと思う。

 今回読み返してみて、この『夜船閑話』の本当の面白さは、行法にではなく、儒・仏・道経を総合した、自由闊達な禅的健康観が打ち出されているところにあると思った。きっとこういう気風が、野口先生おすすめ、という所以ではないだろうか。

自然な死とは―死についての対話 2

自然な死とは

 前回書いたようなことを書くと、やっぱり私も落合×古市氏対談のように「僭越」と批判されるのかもしれない。それぐらい、死については人それぞれの思いがあって、一つの枠に収まることではない。

 でも、いつか死を受け入れなければならない時が来るのに、「生かそう」とする人、死を拒む人しか周りにいなかったら、孤独を感じるのではないだろうか。

 だから私は、整体の先生が死に向かった時、すぐにそれを受け入れられなかった自分を痛切に反省している。そして、遺された者が悲しみを超えるにも、死生観があることは大きな支えになると思うのだ。

 これを書いていてふと気づいたのだが、私は以前、先生が最期の日、病床で右肺(レントゲンで機能していないと言われた)が弛緩する姿勢を取っているのを見て、驚いたことを書いた。今思うと、あれは死を受容するためだったのではないだろうか。

 弛むということは自然に順うことなのだ。生きる人は生きる方向へ、死ぬ人は死ぬ方向へ、「自ずから然り」を受け入れるための体の智慧なのだと思う。だから生きている時に、自分の自然をつかまえなければ、自然な死もない。

 整体指導者だからと言って、病院に行ってはいけないということはないし、家族は入院してほしいと思う場合が多いのかもしれない。

 ただ、亡くなる数日前まで指導をするという生き方は、病院に行っていたらできなかった。

 野口晴哉先生は指導者向けの講座の中で「今、がんが見つかっても何も(生活を)変えないし、最後の最後まで指導をする自信がある」と言い切っている。弟子である先生も、そのようにするのが、自分の自然だったのだと思う。

 私が今、死が近いと分かったら、どうするだろうか。

 やはり私も整体馬鹿らしく、死を先延ばしにするのではなく、「死ぬ時が来るまで生きる」という姿勢で、最後まで生きたいと思っている。

 

 (補足)整体とは

・・・心を静かにしてぽかんとしているだけでは駄目であって、もう一つ体の中の要求をみな感じ取ってそれを運動に表現していく、それが放っておく状態でなくてはならない。

・・・我関せずという無関心は、放っておくという意味にはならない。

・・・要求をみな運動として表現して、心の中のいろいろなものを、乱れを残さないままに静けさを保っておく、天心を保っておく。

そういう心身の状態にもっていって、そしていろいろな変動に処していく、経過するのを待っている。

何もしないで待っているのとそれは違うのであります。

・・・整体の示すところは、いろいろな病気の中で尚、自然を保つということ、静けさを保つということであります。

どんな瞬間にも息を乱さないで、静かに要求を生かすということが理想であります。死ぬまでそうしたい。 

野口晴哉

 (1974年・亡くなる二年前の講義。私の師は1975年四段位取得)

死生観をもつ―死についての対話 1

 死生観をもつ

 今年の始めごろ、落合陽一氏と古市憲寿氏が行った対談(『文學界文藝春秋)で、後期高齢者の終末期医療の問題について語った内容が批判を浴びるという出来事があったという。先日、その記事を今頃になって読む機会があった。

「医療費削減のため、後期高齢者の終末期医療は保険適用外に」といった発言が問題になったようだ。もう終わった話ではあるが、こういうことはもっと別の次元で、個人が、自分で考えることではないかと思う。この二人も「自分はどういう選択をするか」を含めて発言する方が良いと思った。

 病院による違いはあるが、 少なくとも今、現場でどうするかは医師がすべて決めるのではない。自分か身近な人が決断しなくてはならないのだ。

 ユングは30代後半を「人生の午後三時」と呼び、老いや死が自分と無縁でないことを意識し、内面に向かう傾向が出てくる年代だと言った。今は精神年齢が若い(幼い?)から、40代後半かもしれない。

 またユングは、「人は(特に老人は)死についての神話をもたねばならない」と言う。これは日本で言えば死生観を持つことだ。

 以前に少し書いたことがあるが、私は88才男性の整体指導をしていた時がある。

 その人(Oさん)がある時、井深大ソニー創始者)氏が自身の死生観について、「母なる宇宙のもとへ帰る」と語っている(録音)のをラジオで聴いたと言い、「それを聞いて初めて死というものにいいイメージが持てた」と本当にうれしそうに話してくれた。

 その少し前の指導では、Oさんは子どもや孫たちが誕生会(米寿の祝い)をするのを嫌がり、結局嫌々付き合ってしまって体調を崩すということがあった。

 その時、Oさんは家族が「元気で長生きしてね」とか、おめでとうなどというのが白々しいと言い、誕生日なんか、死ぬのが近づくだけなのに、何がめでたいもんか、と本気で言うのだ。

 また、それ以前にもOさんは「もう死んでもいい」などと言うことがあって、私は「これじゃまだ死ねない!」と切り返したこともある。

 でもその時は、「ああ、老いるのって辛いし、死ぬのって寂しいことなんだな・・・」と、少し悲しかった。偏屈と言われても、若い人には分からない感情があるのだ。

 だからOさんが、「母なる宇宙のもとへ」という死生観を持てるようになったと聞いた時、本当に良かった・・・と思った。井深大氏の語る世界観(ビジョン)はやはり偉大だ。人を動かす力がある。

 Oさんには、小学校に上がる頃、警察官だった父親が朝鮮半島に赴任し、父に連れられ母親と離れて外地で過ごした経験があった。

現地には朝鮮人の妻がいて、その人は可愛がってくれたそうだが、数年後に帰国した(滞在年数ははっきりしないが戦争中に日本で旧制中学入学)。

その後、家庭の中が不和になり、子どもが床に入った後、夫婦げんかで母親がヒステリックな声を上げると、Oさんは全身が凍りついたという(指導の時、不意に思い出したと話してくれた)。

 そういう背景もあって、母なるものに回帰するという死生観は、Oさんの無意識的要求に適ったものだったのだろう。

 その後Oさんは、苦しそうな延命措置は受けずに、楽に死ねるにはどうすればいいかと言い始めた。

 Oさんは脊椎が曲っていて、骨盤もかなり下がっていたので一人では仰向けになれなかったが、指導で弛むと仰向けになっていられるので、よく不思議がった。(註)

 そこで私は、「脱力すること」を教えるようにした。いよいよという時は、今の状態を思い出して、心を落ち着けて、ゆっくり呼吸し、体の力を抜く。これを寝る前に練習することを勧めたのだ。

 また、「小さい時好きだったもの(九州の郷土食と極上キムチ)が食べたいが、近くで手に入らないし贅沢かと思って言えないでいる」と言うので、そういう時こそ子どもや孫に頼み、「お取り寄せ」して食べるように勧めた。

 その8か月ほど後、Oさんは救急搬送され、緊急医療を受けることなくそのまま亡くなった。

つづく。

参考文献 ユングユング自伝2 思い出・夢・思想』(みすず書房 1973年)

(註)Oさんの身体の歪みや硬張りは、長期に亘る偏り運動習性の固着による。程度の差はあるが、偏り疲労(力が入ったまま脱力できない部分がある状態)が弛むと、高齢者も背骨は伸びてくる。